氏家 うじいえ

氏家半之丞家


 明治元年支配帳に氏家半之丞家がある。『参考諸家系図』によれば氏家弥右衛門義方を祖と伝える。義方は志和郡主斯波氏に仕えたが、天正十六年主家没落の時、南部家に帰降、旧領同郡三日市村に六十石を給せられ寛永五年死去した。その跡を嫡子半助(のち孫次郎、孫右衛門)義清が相続、寛永十一年支配帳には「七十石・氏家孫右衛門」が散見する。この年、主家南部重直に従って将軍徳川家光の上洛に供したが、京都で死去。参考諸家系図によれば、京都での死去は嫡子源次郎(のち三四郎)義兼とするが、正保三年の支配帳に「七十石・氏家源次郎」があるほか、「南部氏諸士由緒」所収氏家三四郎書上(慶安三年)によれば「親孫右衛門生国御当地、信濃様(利直)より高七十石下さる。當代(重直)御上洛の節は御供にて京都にて病死。拙者儀親跡目御當代相違無く下され、御奉公相勤め申し候云々」とある。「義兼が京都で死去」したとする説は誤伝と言えよう。「南部家系略」重直譜によれば、上洛に供した諸士百三十七人、上下二千二百四十五人の中に、「氏家惣左衛門・上下八人、氏家源左衛門・上下二人」が散見する。氏家源左衛門は孫右衛門の転写の誤記と看られるが、惣左衛門の系は不明である。義兼の跡を半助義道が相続、勘定頭を勤めた。寛文六年和賀郡笹間村(北上市)に六十九石六斗八升三合の知行替があり、更に同七年同村に三十石を加増、高百石となった。その跡を弥右衛門義高(正徳四年死去)━石川助右衛門舊憲の二男善八義章(のち助右衛門、孫右衛門、弥右衛門)と継いだ。享保二十年浄智院殿(利視生母・黒沢傳兵衛定治女やす)の法事の時、東禅寺にて帷子忠右衛門の乱心に関連し、半地を収められて残五十石となった。寛保元年切添新田十二石を加増されて高六十二石となった。貞林院殿(利幹側室・橋本清兵衛清吉女千代)取次を勤め、宝暦三年死去した。その跡を嫡子鍋八義住(のち孫右衛門、孫兵衛)が相続した。宝暦七年の支配帳によれば、高六十二石の家禄は「五十石・氏家孫右衛門」とあるほか、天保十年書上の士族旧禄所務書上によれば、高五十石の采地は福岡通足沢村(二戸市)にあると見える。減高、知行替の時期、ともに不明である。義住は下屋敷取次、火の廻り、角屋敷取次を勤め、天明三年に死去した。その跡を鉄太郎(のち判助)が相続。その後寛政十二年の支配帳に氏家牧太が見える。判助と同人であろうか。詳しい続柄関係は知らない。その後文政三年の支配帳およびその後の各支配帳に半助が散見、慶応元年の支配帳で仙吉と替わる。仙吉は半助の改名。半助と牧太の関係は未確認。半助の跡を慶応二年に養子半之丞(のち半)義知が相続。明治十一年の士族明細帳によれば、馬場小路十四番屋敷に住居と見える。その跡を広見━義臣と相続、当主義浩氏は盛岡市に在住する。

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