上野 うえの |
上野右門家 |
明治元年支配帳に上野右門家がある。『参考諸家系図』によれば<上野甚三郎清政を祖と伝える。清政は三戸にて藩主南部利直に仕え地方七十二石を知行。彦孫山三郎(のち甚三郎)は、七戸給人となり七十五石を領した。その後七戸城主重直が寛文五年に宗家を相続の時、盛岡に召出されて七戸から移った。福岡根岸代官、江戸下屋敷火廻り等を勤めた。その跡を嫡子甚兵衛清詔が相続、延宝中雫石通上野村(雫石町)、沼宮内通沼宮内村に百石の采地を知行、徒頭を勤めて元禄十年死去した。その跡を嫡子市郎助清春(のち甚兵衛、正徳四年死去)━甚太郎清政(のち八郎兵衛、寛保三年死去)━を嫡子源太郎清之(延享五年死去)━覚之丞(のち甚兵衛、雫石橋場番所番、宝暦十二年死去)━市甚兵衛(のち平太夫、権右衛門、市郎右衛門、岩崎新番所番人)と継いだ。天明四年以降の事蹟は不明である。その後、寛政十二年の支配帳に左市兵衛があり、文政初年に甚兵衛がいる。三者の相続関係は明らかではないが、文政三年の支配帳にはその嫡子久馬に代替わりをしている。久馬はその後長柄頭を勤め、文政十三年に隠居した。その養嗣子右門正清は相続後、座敷奉行を勤めた。安政二年中絶していた藩内の荒木流和を再興して師範となり、多くの弟子を育成。明治四年死去した。その跡を養子文次郎正方が相続。同十一年の士族明細帳には大工町百七十四番屋敷に住居と見える。歴代の墓地は盛岡市天昌寺町の天昌寺にある。高百石は沼宮内通松尾村に五十七石余、同通野駄村(八幡平市)に十七石余、雫石通雫石村に二十五石を領していた。 諸士リスト(う?お) 盛岡藩士の家系メインリスト |