上田 うえだ

上田忠次郎家

 明治元年支配帳に上田忠次郎家がある。『参考諸家系図』によれば花巻給人上田弥兵衛貞晴の二男弥吉貞則を祖と伝える。貞則は元禄中花巻から盛岡に召出され、二人扶持(高十二石)と四季施九貫三百文を食禄して小姓部屋に詰めた。享保十年中津川普請下奉行を、元文五年盛岡城普請下奉行を勤め、延享四年死去した。その跡を忠吉(のち九右衛門、九郎右衛門、弥次右衛門)定高が相続、安永七年死去した。その跡を寅吉(のち米作、九右衛門)貞温が相続した。寛政十二年の支配帳によれば、その家禄は「二人扶持(高十二石)と四季施九貫三百文」とあるが、文化三年の諸士屋敷並建家図書上では「二人扶持(高十二石)四季施一両二歩」と、四季施に変動が見られる。時期は不明である。天保五年に隠居し同年死去した。その跡を嫡子忠八が相続し安政六年に隠居した。しかしこの隠居の年について異説がある。諸士給人由緒書上は、忠八は安政六年四月「先衰えに付、御奉公相勤め難く、願によって隠居、嫡子忠次郎え家督を相違なく仰せ下され云々」としているのに対し、明治三年の士族旧禄所務書上は、忠次郎の相続を「文久元辛酉歳四月二日家督」とし、明治四年の士族明細帳も文久元年説を採っている。ちなみに藩制期の史料である安政六年以降、万延元年、文久元年の各支配帳はともに上田忠次郎を記載、安政説を傍証した形となっている。理由は知らない。忠次郎は大砲方手伝、用聞を勤め、慶応元年物価高騰を理由に本高同様の手当米十八石が支給され、手当米ともで三駄四人扶持(三十石)を食禄した。その後明治八年の士族明細帳には、その嫡子貞知(初め貞吉)があり、同十一年の士族明細帳では、九年にその嫡子貞一郎が相続、当時は仁王小路五十二番屋敷に住居していた。その跡を実次郎━貞臣━孝郎━タマ━実と継いで、当主の久子氏は栃木県に在住する。

 上田氏系統図

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