植沢 うえさわ

植沢練蔵家

 明治元年支配帳に植沢練蔵家がある。『参考諸家系図』によれば植沢検校を祖と伝える。検校は元禄中打掛座頭で江戸に登り、四度(當道階級の一)になった。藩主信恩の時、真寿院殿(信恩夫人毛利甲斐守綱元女元子・利視嫡母)の願いで召出され二人扶持を宛行われ、その後真寿院殿の後添えで勾當から検校まで昇進した。享保二年一生三人加扶持、同十三年一生三人加扶持分を永く三人扶持加増とされ、同十七年二人加扶持で七人扶持(高四十二石)となった。寛保二年真寿院殿が死去して盛岡に帰り、盛岡で死去した。その子植沢熊之助は、延享五年更に給人に召出され高三十二石を宛行われた、のち隠居の後死去した。その家督を養子孫兵衛が相続。家督の時現米十八駄(高三十六石)を宛行われ、貞林院殿(藩主利雄生母・橋本清兵衛清吉女千代)の賄役を勤め、十八駄を九駄三人扶持(高三十六石)に色替された。明和四年勤方不調法の罪により野田給人に遷され、同年野田で死去した。その跡を弥五郎(のち孫兵衛、同七年盛岡に還住し南部雅楽助附、文政八年死去)━周平 (毛馬内蔵奉行、天保十三年隠居)━勇治(のち彦兵衛、周平)━練蔵(文久二年相続、大奥用聞)と継いだ。明治四年練蔵の跡を嫡子準蔵(一志)が相続、部屋住の内から雇勘定方を勤め、維新後は一志の名で少属、ついで権大属となった。同十一年の士族明細帳には東中野村(盛岡市)四百三十七番屋敷に住居と見える。その跡を勝正━剛一と継ぎ、当主の博和氏は神奈川県に在住する。

 諸士リスト(う?お)

盛岡藩士の家系メインリスト


一覧にもどる