岩間 いわま |
岩間瀬左衛門家 明治初年下山氏 現在は岩間氏 |
明治元年支配帳に岩間瀬左衛門家がある。『参考諸家系図』によれば、奥寺作右衛門清定の養二男岩間勘右衛門快孟(実は岩間将監政次二男)を祖と伝える。快孟は元禄九年岩間将監政次の二男を以て召出され二人扶持を拝領した。その後奥寺作右衛門清定の隠居養子となり、二人扶持を持込み奥寺喜之助と称した。同十一年養父清定の死去により、養父の隠居料五十石と部屋住料二人扶持を合わせ高にして六十二石となった。小納戸を勤めた。宝永七年命によって岩間氏に改め元締を勤めた。正徳元年二人扶持を返上して地方百五十石を加増され、二百石の采地を領した。同二年に二人加扶持、二百十二石となった。享保七年死去、国中に鳴物停止一日が令された。藩主家族および家老の死去以外では異例のことであった。その跡を嫡子作右衛門定綏が相続、延享二年に隠居して明和九年死去した。その二男勘右衛門正桜が家督を相続、黒沢尻物留番所役人を勤め寛政三年隠居、同九年死去した。寛政三年その三男作左衛門が相続、同十二年に死去した。その跡を叔父純平栄明(作右衛門定綏四男)が継いだ。栄明は初め座敷表給仕舞台奉行兼帯を勤め、その後武具奉行、宗門奉行となった。文政六年に隠居、同十三年死去した。その跡を嫡子勘右衛門(文政十一年死去)━衛士(座敷奉行、安政元年死去)━新渡戸左金吾の叔父瀬左衛門栄一と継いだ。先手役となり、明治初年下山氏に改め下山栄一を称した。同三年隠居。その跡を養子元次郎が相続したが、その後栄一は誠造を名乗り再相続した。次いで再び下山氏を岩間に改め岩間栄一と称した。明治十一年に養子岩間但勝が相続、その後ヨシ━熊五郎━冨五郎━弟の冨衛と相続、当主久子氏は東京都に在住する。歴代の墓地は盛岡市名須川町の東顕寺にある。高二百十二石の采地は百石を雫石通上野村(雫石町)の内に、百石を同通西野村(雫石町)の内に知行、残り十二石は扶持方。 岩間諸流略諸士リスト(あ?い) 盛岡藩士の家系メインリスト |