岩間 いわま |
岩間杢家 維新後、下山氏と改姓 2008260367 |
明治元年支配帳に岩間 杢家がある。『参考諸家系図』によれば岩間左市之助貞尚四男岩間杢兵衛政盈(はじめ薫春、または兼号)を祖と伝える。政盈は南部重信の代に召出されて家老次、次役を勤め、元禄中に六十八石を拝領。のち小納戸となり新丸普請奉行、破損奉行を兼ねた。宝永七年五人加扶持、高にして九十八石となった。同年目付となる。享保三年に二石を加増され百石となり、この時地方百石に色替された。その後持弓頭、花輪郡代を歴任し同十三年死去した。嗣子長次郎政彊が出奔していたので、政彊の子杢朝陳が嫡孫承祖。宝暦三年死去した。その跡を三弟十郎右衛門が順相続、鬼柳黒沢尻通代官、沢内通代官、安俵高木通代官を歴任して天明四年に死去した。その跡を漆戸主膳茂親の四男小左衛門茂勝が相続。雫石通代官、沢内通代官を勤め享和二年隠居。その跡を左右が相続し徒頭を勤めた。その後数代の相続関係は不明だが、天保十年書上には小四郎、嘉永二年支配帳に杢兵衛、安政四年から文久元年の身帯帳に賢之助。明治三年に賢之助の子真兵が盛岡県庁に提出した親族書上によれば、その祖父を岩間政五郎、父を岩間鷲良、後下山鷲良、自分真兵の家督は明治三年としている。資料から推して左右と小四郎は同人、小四郎と杢兵衛は親子関係、杢兵衛と賢之助および政五郎は同人であろうか。杢鷲良は実は下田只右衛門の二男。賢之助に嗣子がなく文久三年に養嗣子となりその跡を相続した、目付、表目付を歴任した。明治二年か、岩間氏を本姓に復して下山氏と改め下山鷲良と称した。同三年隠居、その跡を真兵が相続した。その真兵の跡を同六年に隠居鷲良が再相続。鷲良は同八年松尾小学校開校に伴い初代校長となった。同三十八年隠居。その跡を桃太郎━正常と相続、当主下山博志氏は岩手郡滝沢村に在住する。歴代の墓地は盛岡市大慈寺町の久昌寺にある。高百石の采地は長岡通星山村(紫波郡紫波町)の内にあった。 岩間諸流 諸士リスト(あ?い) 盛岡藩士の家系メインリスト |