岩間 いわま |
岩間左市兵衛家 |
明治元年支配帳に岩間左市兵衛家がある。『参考諸家系図』によれば岩間将監政恒の二男岩間肥前政春を祖と伝える。政春は浪士にて閉伊郡高浜村太田浜に住す。寛文元年百余歳で死去す。その跡を雅楽政光(貞享二年死去)━雅楽政儀(貞享七年死去、七十二歳)━雅楽政保(寛保元年死去、七十七歳)と浪人で一生を終えた。政保の子左市兵衛政英に至り、藩主利視の生母心光院殿()に従って江戸に登り、正徳三年召出されて六駄二人扶持を宛行われ配膳となる。のち御供下り。享保十四年盛岡大火の時居宅類焼により、宮古給人を願い上げ、許されて高浜村に移る。宝暦三年二人扶持加増、六駄四人扶持となり、同八年死去。その跡を左助(のち左市兵衛)が相続。安永四年、先代が宮古高浜村に開発した新田を本知に加増、八十四石となる。安永九年、盛岡大火後御用金献金により金方十六石加増、都合百石となる。天明元年幕府から甲州川々普請手伝いを命ぜられて冥加金を献金、金方十二石五斗を加増せられ百十二石五斗となる。同四年、前年の飢饉に寸志金を献金、宮古住居盛岡支配となる。同六年前年の不作に付献金、金方五十石加増、百六十二石五斗となる。同八年死去。嗣子左兵衛(実は岩間将監二男)は父に先立ち部屋住みで死去のため、左兵衛の子松助文則(幼名松太郎、後左市兵衛)が相続す。寛政八年足高分取戻令により元高八十四石となる。文政四年死去。その跡を佐市郎(幼名桃之助、天保九年死去)文弼━桃太(のち寿、左市兵衛)と相続、明治二年名前に国名官名の使用禁止令により左市郎と改名す。明治四年左市郎の跡を下山源八郎が相続。同八年士族明細帳によれば旧名源八郎、下山政道とある。下山と改姓した時期は定かではないが、同族諸家の動向に照らして明治三・四年頃と勘考される。 岩間諸流 諸士リスト(あ?い) 盛岡藩士の家系メインリスト |