岩館 いわだて |
岩館謹一郎 |
明治元年支配帳に岩館謹一郎家がある。『参考諸家系図』によれば、本姓は宇都宮氏。代々二戸郡岩館村に住居、在名により氏としたといい、岩館右京亮義矩を中興の祖と伝える。義矩の嫡男宗八景吉の家を嫡家とし、門葉は四家に分流した。その一は義矩の二男孫右衛門の家。その二は景吉の嫡孫五郎右衛門吉當の二男弥五右衛門義監を祖とする家。この家は義監の子右太夫武周の時に徒に取立られ、子孫要右衛門の時、天明元年士籍に列した。文化六年その子要右衛門の代に願によって五戸給人となった。その三は孫右衛門の子与五左衛門の二男治五右衛門吉福を祖とする家。その四は系不明だが、末家と伝える北館重右衛門全庸の子岩館忠右衛門親庸を祖とする福岡給人家である。明治元年の支配帳によれば次の家である。(家禄は石高換算) 一、二百石一斗六升六合 岩館謹一郎 以下を参照 一、二十八石 岩館与五左衛門家 一、二十四石 岩館官治家 一、二十石 岩館民弥 福岡給人 一、二十四石 岩館貫兵 五戸給人 嫡流 岩館謹一郎家 当家は岩館右京亮義矩を中興の祖とする岩館家の嫡家である。 義矩は家督の時に高八十二石二斗を以て相続、南部利直に仕えた。その後慶長十三年本貫の地岩館村(一戸町)に四十八石二斗一升六合ほか、稗貫郡矢沢村に二十五石七升四合、和賀郡横川目村(以上花巻市)に三十四石五斗一升を加増され、二百石となった(その後数度の替地があった)。寛永九年藩主利直の死去に追腹殉死をしている。三戸(青森県南部町)三光寺、利直廟の側に埋葬されている。その跡を嫡子宗八景吉が相続。者頭を勤めた。のち三戸普請奉行を勤仕中に過失の罪を被り、高七十三石余を収められて残り高百三十石となった。景吉の跡を作十郎(寛文七年死去)━五郎右衛門吉當(目付、長柄奉行、吟味役等を勤め、元禄中切添新田十三石を加増され高百四十三石となる。宝永五年隠居、享保八年に死去)━甚右衛門義置(宝永五年に家督、雫石通代官、勘定頭、元〆等を勤め享保十一年隠居、翌十二年に死去)━久内義陳(元禄十三年死去)━実弟五郎左衛門(のち甚右衛門)義武と相継いだ。義武は初め分家岩館定右衛門義正の養嗣子となり義正の家督を相続したが、兄義陳の末期養子となり、その家督を相続した。毛馬内通代官、使番、目付を勤めた。目付勤中、宝暦三年幕府が日光東照宮本坊を修復の時、手伝普請のため現地に出張し用掛を勤めた。公事用掛を勤中、宝暦十四年に五十六を石加増せられ、高二百石となった。その後寺社町奉行とを勤め明和三年死去した。心眼流劒術を一条勘右衛門に師事して同流師範となり、流儀を三浦忠左衛門頭孝に継いだ。家督は嫡子隣助(のち五郎左衛門、浅右衛門、甚左衛門)が相続。花輪通代官、飯岡厨川通代官、者頭、目付を勤めた。目付勤中、番割用掛、倹約用掛、駒改用掛、三戸稽古場用掛(藩学校)、由緒用掛を担当したほか、安永十年には幕府の軍役・甲州川々普請に際して用掛、天明四年の飢饉には救用掛等を歴任した。天明八年死去した。その跡を嫡子作十郎(のち宇内、五郎左衛門)が相続した。武具奉行、鹿角境奉行、長柄奉行、目付を勤めた。目付勤中には由緒用掛、領内馬改掛、蝦夷地固め用掛、寛政十二年には蝦夷地五百人出兵の用掛を勤め、後に自らも函館勤番として現地に在勤した。文化三年死去した。その跡を才八(のち右門、作十郎)義恒が相続、座敷奉行表給仕、台所奉行、先手役(者頭)と勤め安政四年死去した。その跡を嫡男才市、二男蔵太とも既に死去していたため、二男蔵太の長男徳治(のち正記)が継ぎ、加番組番子組頭を勤め安政五年死去した。その跡を実弟保太郎(のち謹一郎)吉貞が相続した。小姓、徒頭を勤め、明治二年藩知事利恭の家従となった。同十年の士族明細帳によれば、吉貞は当時大沢川原五十六番屋敷に居住していた。歴代の墓地は盛岡市北山の聖寿寺にある。高二百石の采地は、七四石余を福岡通岩館村(一戸町)に、六六石余を同通月館村(一戸町)に、二石余を同通西法寺村(一戸町)に、六五石を雫石通繋村(盛岡市)に知行した。 諸士リスト(あ行) 盛岡藩士の家系メインリスト |