岩泉 いわいずみ |
岩泉八右衛門家 |
明治元年支配帳に岩泉八右衛門家がある。『参考諸家系図』によれば東三郎信政の二男岩泉帯刀信時八代の孫義包の七男惣兵衛政明を祖と伝える。東三郎信政は南部家二十四代遠江守義政の二男、その子信時は閉伊郡岩泉村を知行し、在名により氏とした。世系はその子右近━七郎━次郎━又次郎━三郎━右近━兵部義包と相続、義包の時に南部信直に仕え四百石を知行したという。義包は子福者で七男十七女あったが、嫡子又次郎政包は慶長十九年大坂冬の陣に従軍の後、寛永中喧嘩刀傷で相手を殺害し、切腹の上収録、嫡流は断絶した。二男孫三郎政休の子又右衛門は別に召出されて二駄片馬二人扶持(高十七石)を宛行われたが、四代の孫鶴松の時に断絶した。又右衛門の二男清右衛門恒定の子孫は三人扶持を宛行われ、のち毛馬内給人となった。明治元年の支配帳に毛馬内給人二人扶持(高十二石)岩泉和平でみえる。義包の七男惣兵衛政明は浪人にて万治三年死去。その子惣右衛門相章は寛文六年勘定方に召出されて二駄(高四石)を宛行われた。同九年三駄二人扶持を加増され五駄二人扶持(高二十二石)となり、延宝六年嫡家再興を願い出て士籍に列した。この時前禄を返上し新に岩手郡太田村(盛岡市)に新田五十石を食邑した。のち畑返新田五十七石を加増され高百七石を知行。元禄二年知行所太田村が鷹野場となり采地を二戸郡一戸村に替地された。代官を勤め宝永三年死去。その跡を嫡子惣右衛門相邑が相続、大槌通代官を勤めた。享保十三年京都岡崎屋敷番となったが、翌年同地で死去して洛東黒谷瑞泉院に葬られた。その跡を惣右衛門(のち権左衛門)昌成が相続、雫石筏奉行を勤め、寛延二年死去した。その跡を忠四郎(のち覚太夫、権左衛門)昌吉が相続、明和三年隠居した。昌吉に二弟惣右衛門昌家がいた。同族岩泉民之助の養子に出ていたが、昌吉の実子傳内昌兼が幼少のため家に帰り、甥昌兼の看抱を以て兄昌吉の家督を相続した。宗門奉行を勤め寛政二年死去した。その跡を甥傳内昌兼が養嗣子となり相続した。昌兼の晩年は知らない。その後天保十二年の支配帳、嘉永二年の支配帳に惣右衛門が見え、安政二年の支配帳から八十右衛門に変わる。八十右衛門は納戸を勤め、維新後、官名の名乗制禁により八十茂と改名した。明治三年その跡を嫡子忠七政夫が相続した。明治四年に政夫が盛岡県に提出した先祖三代書上によれば、祖父を一遊、父を八十右衛門としている。一遊は惣右衛門の隠居名と知れるが、惣右衛門と傳内昌兼の関係は未確認である。代々の墓は盛岡市愛宕町の恩流寺にある。高百七石二斗四升一合の采地は福岡通一戸村に食邑した。 諸士リスト(あ行) 盛岡藩士の家系メインリスト |