伊東 いとう

伊東吉代見家

 明治元年支配帳に伊東吉代見家がある。『参考諸家系図』によれば伊東弥左衛門直之を祖と伝える。直之は生国相模(神奈川県)の人。初め丹波(京都府)柏原城主織田上野介信勝に仕えて知行百五十石を領した。慶安三年信勝の死去により主家は断絶し浪人となる。明暦元年江戸で南部重直に召抱られ、地方二百石を三戸郡田子村の内、貝森村の内、又重村の内に宛行われ。のち志和郡郡山城代を勤めた。晩年隠居し延宝元年死去した。その跡を嫡子弾右衛門祐昌が相続、徒頭、宗門奉行、七戸通代官を勤め、宝永元年死去した。その跡を翌二年五男の清作祐直が相続。次役、小姓並側役、野田通代官、三戸通代官、野辺地通代官、側役と歴任。のち目付となり側役を兼ねた。更に目付、者頭、野辺地境奉行を兼ねた。その後寺社町奉行兼先手弓頭を経て用人に昇る。元文二年藩主南部利視を諌言し身帯召上閉門となった。寛保三年新に召出され現米五十石を食禄し、大槌釜石十分一取立役、次いで宮古通代官を勤める。のち寺社町奉行、次いで先手錆組頭となり延享二年地方五十石を三戸郡田子村の内に加増され百石となった。同四年現米色替えされ旧高二百石に復した。采地を三戸郡田子村、貝森村、又重村、大森村、切谷内村五か村の内に宛行われた。宝暦二年用人となり世子利謹の守役となる。明和六年金方五十石を加増された。同九年現米五十石を加増、都合三百石となり、他に陸尺給金年五両を宛行がわれた。安永三年世子利謹の廃嫡により用人兼世子守役とも退役、翌四年に隠居し同年死去した。その跡を七男の源左衛門祐芳が嫡子となって相続、騎馬火廻り番などを勤め同七年死去した。その跡を嫡子弾右衛門祐程が相続した。祐程は七戸通代官、三戸通代官、先手鉄炮組者頭などを歴任して文化十二年に隠居し、文政三年に死去した。その跡を嫡子繁左衛門祐至が相続、天保三年に隠居して同七年死去した。その跡を天保三年嫡子弾右衛門祐之が相続、同十四年死去した。その跡を嫡子吉代見祐順が相続した。祐順は先手鉄炮頭、進物番、徒頭、目付となった。目付の勤中に北地備後詰、由緒掛、宗門掛、中津川下の橋普請掛、藩学校明義堂掛、牛馬掛などを担当した。安政七年エトモ勤番中、東蝦夷地に陣屋地受取役を勤めた。明治二年仙台藩からの白石城引受役を勤めた。同年参政となり、その後監察諸事相談、刑事督務、大属兼神祇補などを歴任した。同七年養子定至が相続した。その跡を妻ミキ(祐順長女)、満及(実は大光寺光寿の二弟)、ミキ再相続、その子武夫と継ぎ、その子で当主の節子氏は盛岡市に在住する。前出の満及は祐順の娘ミキと婚姻して西南戦争に従軍、鹿児島県下鳥越坂で戦死した。歴代の墓は盛岡市北山の源勝寺および法華寺にある。高三百石の采地は一九石余を三戸通貝森村(三戸町)の内に、八三石余を同通田子村(田子町)の内に、五六石余を五戸通又重村(倉石村)の内に、三三石余を同通大森村(南郷村)の内に、七石余を同通切谷内村(五戸町)の内に食邑した。 諸士リスト(あ行)

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