五日市 いつかいち |
五日市直見家 |
明治元年支配帳に五日市直見家がある。『参考諸家系図』によれば五日市又左衛門(本名・浅沼氏)と伝える。藩主利直の時に召出されて三百石を領した。慶長五年の和賀岩崎陣の従軍者に二百石五日市兵庫が散見するするのは同族だろうか。その嫡子又兵衛宗定は家督の後、御者頭を勤めて足軽三十人を預かった。のち故あって禄を収められた。既に寛永支配帳(同二十一年改)には見えない。その子作十郎宗清は足軽に召出され三駄二人扶持を宛行われた。この時子細あって大矢氏を称したという。その長男弥平太宗房の子孫は明治元年支配帳に、「三駄二人扶持 鳥見 大矢力助」で見える。二男宗明は初め浪人で志和郡飯岡村(盛岡市)に住居したが、宝永七年時の藩主利幹が向中野通に鷹野の時、宗明の家に小休、その縁で召出され一人扶持を宛行われた。のち正徳元年新規に二人扶持を宛行われ士班に列した。享保八年死去した。その跡を嫡子又兵衛(のち又右衛門)宗親が相続、同十七年に死去した。その跡を嫡子又八(のち角左衛門)宗久が相続。天明元年御勝手向きに手伝金三十二両二歩を献納して志和郡又兵衛新田村(矢巾町)に地方八石を加増、同年更に四十八両を献納して二人加扶持、都合高三十二石(うち二人扶持)を宛行われた。現在に残る「又兵衛新田」の地名は先代又兵衛宗親の開拓による命名と伝えている。同二年死去した。その跡を喜弥太(のち作十郎、角右衛門)が相続、寛政七年隠居した。その跡を条助(のち又兵衛)が相続、同九年三十二石の内二十石を足高収例によって取戻され、残り二人扶持となった。雇勘定、鬼柳黒沢尻代官所下役を勤めたが、晩年については知らない。天保十二年の支配帳には角左衛門が見え、その前後に大奥御用聞として散見する。その跡を嫡子作十郎が相続、北地締役を勤めた。その跡を慶応元年に養子直見宗功が相続した。宗功は部屋住の内から御目付所御物書を勤め、家督後に寺社町奉行所下役、寺社方を勤めた。家督の時に三十歳であったという。とすれば宗功は天保七年の誕生。単なる推測の域であるが、条助(のち又兵衛)と天保中の角左衛門は同一人物、作十郎とその養子宗功は兄弟、順相続がなされたのではなかろうか。慶応元年物価高騰を理由に本高同様の手当米十八石が支給され、手当米ともで三駄四人扶持(三十石)となった。明治十年の士族明細帳によれば、同年宗功の跡を継いだ宗国は当時下厨川村九十三番屋敷に居住していた。 諸士リスト(あ行) 盛岡藩士の家系メインリスト |