一条 いちじょう

一条弓太家

 明治元年支配帳に一条弓太家がある。『参考諸家系図』によれば、一条左衛門五郎忠次の三男助三郎頼武を祖【系図参照】と伝える。頼武は浪人で一生を過ごしたが、その子与三郎頼興は藩主重直の時、鷹匠に召出され現米十駄(高二十石)を宛行われた。頼興の跡をその子彦惣頼久、その子又右衛門頼房と相続した。頼房は藩主重信の代に士籍に列し五駄二人扶持(高二十二石)となった。その跡を嫡子次郎右衛門頼定が相続して鷹匠を勤めた。その子次郎右衛門頼英が相続して鷹匠頭を勤めた。その跡を下田長兵衛直央の三男伊太夫頼節が相続した。雇鷹匠となり宝暦十年死去した。一方「系胤譜考」は左亮頼康の三子清次郎元広を祖とし、伊太夫頼節に至るまでの世系を別にしている。元広は重信の時鷹師に召出され五駄二人扶持を食禄し元禄十一年死去した。その跡を嫡子次郎左衛門頼照が継いだ。幼少により二人扶持を宛行われ、元文三年五駄を加増され五駄二人扶持となった。その子伊太夫頼節が元文三年初目見を勤めたとしている。「参考諸家系図」の論拠は明らかでないが、「系胤譜考」の同家系図は頼照本人が藩に提出したものであり、当代に限って見れば極めて信憑性は高い。頼節はその後家督を相続、寛延四年士籍に列して宝暦十年死去した。その家督を戸来条右衛門秀延の三男又七(のち宇兵衛)頼族が相続した。川普請奉行、台所奉行、田名部山奉行、五戸蔵奉行、雫石山奉行を勤め寛政十年隠居した。その跡を嫡子安右衛門が相続、雇勘定方を勤め文化十一年死去した。その跡を嫡子駒治(のち平治、平陸)が相続、その跡を安政五年に嫡子弓太(のち宇平)頼徳が相続した。慶応元年物価高騰を理由に本高同様の手当米八石が支給され、手当米ともで三駄四人扶持(三十石)となった。明治十年の士族明細帳によれば、頼徳は当時東中野村二百一番屋敷に居住していた。


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