石原 いしはら

石原操二郎家


 明治元年支配帳に石原操二郎家がある。馬場勇記の男石原汀の二男。「諸士給人由緒書上」石原汀書上によれば、操三郎興保、弘化四年二月被召出、別家に罷成ある。

 ここには、石原汀の事柄から記述する。
生母は馬場勇記の妻。のち南部利謹(三十四代利雄の長子で廃嫡)の側室となり清鏡院と謚された、世伝うる油御前(於米之方)。三十七代利済の生母である。『盛岡市史』別篇再続人物伝(故太田孝太郎著)によれば、「興忠・興頼・興禎、幼名松太郎、保兵衛と称した。文化十四年正月十日出生、清鏡院の縁でもって殿中で養育された。汀の名は文政十一年五月藩主利敬より賜わるところと云う。天保三年十六歳で御小姓をつとめ、六年小頭兼御側目付より側用人にすゝんだ」といい、利済の寵愛を得て家老となったが、嘉永六年の三閉伊一揆により引責閉門。家屋敷家財共に没収されたと見える。
『人物伝』はさらに、「爾来二十余年謹慎して門を出でなかつたと云う。光照寺の閑事庵円隆につき茶道をおさめ閑事庵示寂ののち上田隆佐につき、さらに江戸に上り川上不自三代の梅翁に学び、閑松庵如自の号を授けられた。自ら妙楽有隣と称したのは清鏡院の妙白と云うに因んで妙字をとつたものと云う。晩年汀翁と称した。明治三十八年三月二十日八十九歳で歿し、子孫東京にあり骨を東京に埋葬したが、茶の門人橘正三不染が分骨して源勝寺に葬つた。茶之湯式・妙楽夢物語がある、夢物語は自叙伝とも見るべきものである」。と伝えている。

 文政十一年十二月書上(平成19年11月1日追記)

                          馬場勇記嫡子
一、五両五人扶持                      石原勇蔵━━┓
 右者勇蔵儀、清鏡院様御所縁も有之付、別段思召を以被召出、五両五人扶持 ┃
 被下置、尤苗字石原と相改候様、文政十一年十二月被仰出         ┃
                    勇蔵事 汀           ┃
文政十二年二月於大奥名被下置                      ┃
一、御所縁も有之付、思召を以百石上座被仰付旨天保八年二月被仰出     ┃
一、百石                                ┃
 思召有之御金方四拾五石御加増被成下被下来候五両五人扶持え御加、都合百 ┃
 石被成下旨天保十一年四月被仰出                    ┃
一、三百石                               ┃
 御趣意柄も有之に付、思召を以御金方弐百石御加増被成下被下来候百石え御 ┃
 加、都合三百石高に被成下、野田司馬次、野沢続上席、天保十三年六月被仰 ┃
 出、                                 ┃
一、少将様・大守様別段之思召被為有候に付、御新丸御番頭家格被仰付、原直 ┃
 記可為次席旨、嘉永五年十月被仰出                   ┃
一、清鏡院様御由緒柄も有之に付、先年清鏡院様え為御慰料被進候黒沢尻通上 ┃
 江釣子村・下江釣子村にて三百石、少将様・大守様思召を以拝領被仰付[切れ┃
  ]三百石、右地形に御直[切れ]嘉永六年五月[切れ]         ┃
一、嘉永六年十一月[切れ]有之、身帯[切れ(家屋敷ヵ)]御取上蟄居[切 ┃
 れ(被仰出ヵ)]若狭え預[切れ]                   ┃
                        「諸士給人由緒書上」  ┃
   明治二年正月七日                         ┃
                        石原操二郎引取り    ┃
                     養育浪人 石原   汀    ┃
   先達て不調法之儀有之、逼塞被仰付置候所、此度御名跡被為蒙仰候に付 ┃
   御憐愍を以被成御免                        ┃
                        「公事御用留」     ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣寿太郎
┃ 嘉永六年十一月赤前四郎方え引取養育
┗操二郎
  弘化四年二月被召出、別家に罷成
                       「諸士給人由緒書上」

「嘉永身帯帳」は老女藤嶋名跡を以て仰せ付けられたとある。操二郎興保の跡を興邦(明治八年に相続)が相続、明治十一年士族明細帳には紫波郡山屋村二十三番屋敷に住居と見える。現在盛岡藩士桑田の会員には興邦三弟知時の末裔が継承。北海道に居住している。


 ここで、一言私見を加えて置きたい。筆者(工藤)は、石原汀については全く知識はないものの、石原汀は三閉伊一揆により引責閉門。家屋敷家財共に没収されたことは史実である。しかしながら、岩手県立図書館が所蔵する記録類や横澤家文書によって藩主利済の政治姿勢を検討する中で判然とすることは、利済を初め、この事件で処分された横澤兵庫・川嶋杢左衛門についていえば、通説は多分に脚色されおり、中立性を逸脱していると考える。利済への誹謗は、各武術師範に対して実力の伴わない「家柄の者」及び「高禄者」に免許の交付厳禁を再度に及んで布告(『官暇餘録』)、領内庶民にまで及んで財政達直し策を献策させたこと(『内史略』は、「ずるがしこい商人にそそのかされ云々」と言って中傷している)。『内史略』は、この一件により大矢勇太の献策文を取上げ、大矢氏は罪もないのに失脚したとしているが、大矢氏は、この献策の直後に民政畑の統括者として活躍している(『御番割遠近帳』)。同書は大矢氏のその後の経歴を臥せて語った利済中傷論の何ものでもない。横澤兵庫等を抜擢したことに対する高知諸士の反発、失脚の画策が見え隠れする(代表的事件に、南部修理が横澤兵庫の立身を嫌って自害した。自害は天下の大法(幕府法)による家名断絶であるにも拘わらず、横澤兵庫が怒って同家を断絶にしたと云った尾鰭まで付けて語られている)。ちなみに、川嶋杢左衛門は家名断絶後にも、人望厚く、各方面の人達が教えを乞うて訪問している。後世においてこれらの人を誹謗する人達は、この一事をどのように判断し、否定の立場を唱えているのだろうか。 総合的視点に立脚し、利済をはじめ、誹謗されている人達の再評価が必要であることを痛感する。(同世代の一人である三本木開発の新渡戸傳は自伝の中で石原汀を悪評しているのも史実である)


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