石亀 いしがめ

石亀 司

 
明治元年支配帳に 御新丸御番頭 石亀 司家がある。『参考諸家系図』によれば石亀紀伊守信房の曾孫玄蕃亮貞次の二男彦兵衛政勝を祖と伝える。政勝は南部重信の代に召出され五十石を領した。貞享三年新田開発を出願、のち披立高二十三石を加増されて七十三石となった。この時四百石座の家格となる。沢内御通代官、世子行信の御側役を勤め、晩年隠居し元禄十四年に死去した。志和郡乙部村(盛岡市)長善寺に葬られた。その跡を毛馬内三左衛門自次の三男弥左衛門政晴が養嗣子となり相続。元禄十六年新田二十七石加増、次いで百石を加増されて二百石となった。御用人、御新丸御番頭を勤め享保九年に死去した。推して御新丸御番頭の家格に昇進したのは政晴の代であろう。以降歴代御新丸御番頭を勤めた。享保九年政晴の跡を嫡子五左衛門政時が相続して同十八年死去。その跡を徳左衛門政忠が相続、元文元年に隠居し同四年に死去した。その跡を石井勝左衛門光端の二男源次郎政苗が嗣子となり相続、同六年死去した。その跡を石井勝左衛門光端の四男彦兵衛政備(政苗実弟)が相続、安永五年に隠居して天明元年死去した。その後を加治馬政芳が相続、文政十三年に隠居、天保三年に死去した。その跡を嫡子丹後政優が相続して同九年隠居、弘化四年死去した。天保九年その跡を司が相続、司は心眼流劔術を一条秀兵衛に師事して同流師範を勤め慶応四年隠居、明治十年に死去した。その跡を継いだ左司馬政祥は、大目付となり、維新後監察兼議事、権少参事、少参事のほか民部省養馬掛となった。明治三年十一月の宮城県登米における三陸会議には盛岡県を代表して出席した。同六年に隠居し同十四年死去。明治十年の士族明細帳によれば、その跡を継いだ嫡子龍太郎政親は当時花屋町百五十七番屋敷に居住と見える。歴代の墓地は盛岡市北山の東禅寺にある。采地百石は伝法寺通小屋敷村(紫波郡紫波町)の内に食邑していた。




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