石川 いしかわ

石川 淵家

 明治元年支配帳に石川 淵家がある。『内史略』は差上侍を列記。その中に一、地方九十石、三戸丁質屋石川太郎右衛門 石川清。一、三十石内二人御ふち、石川太郎右衛門支配人 石川助四郎が散見。「飢饉考」は、常陸屋太郎右衛門こと石川 澄」と記錄する。『諸士給人由緒書上』によれば、天保六年二月に石川太郎右衛門は「御用達御町人であったこと。天保四年の凶作に際し米穀差配役を命ぜられ、大坂から米買付役の功績により一生の内給人格(この時三駄五人扶持拝領か)となり、同八年澄志と名拝領。同六年二月四人扶持を加増の上、永く御給人となった。同八年累年の献金を賞せられ地形三十五石加増、合九十五石となる。嘉永五年嫡子金司こと名を淵と拝領す。安政元年加増分の取戻令により、地形三十五石、現米六石、扶持方五十四石取上げられ、金方三十一石六斗六升六合となる。文久三年死去。その跡を淵(のち淵水)が相続、銅山吟味役を勤め明治三年戸籍には住所を加賀野と記載している。その跡を牧太郎が相続。明治八年士族明細帳では牧で見える。そのあとを金治、ノブと継いで当主の幸子氏は盛岡市に在住している。


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