荒木田 あらきだ |
荒木田忠左衛門家 |
明治元年支配帳に荒木田忠左衛門家がある。『参考諸家系図』によれば、荒木田治部定綱の三男甚吉定勝【系図参照】を祖と伝え、明治維新後に本姓一戸氏に改めた一戸家がある。定勝は二十八代重直の代召出され岩手郡荒木田村に八十三石を領した。その子甚左衛門定治の代延宝七年足高新田九石を加増され、九十二石を以て百石の軍役を勤めた。その子惣左衛門正次は延宝八年に家督を相続、元禄二年新田披立により八石加増され百石となった。毛馬内通代官を勤めた。正徳三年正次の跡を惣右衛門正勝が相続、正勝は享保十四年死去した。その跡を忠兵衛政勝が継いだ。政勝は福岡通代官、田名部通代官、毛馬内通代官、側役、奥使、刀番、目付を歴任し、安永九年三十石を加増され百三十石(内三十石現米、七石六斗八升四合無高)となり、天明五年死去した。忠兵衛は拝領名である。政勝の跡を甚左衛門政英が相続し雫石通代官を勤め、文政二年死去した。その子弘司景充は福岡通代官を勤めた。また武術に優れて心的妙化流砲術師範、謙信流兵法師範を勤め、天保十一年死去。その子辰之進景寿が相続、慶応元年支配帳には忠治とあり、のち忠左衛門と改めた。鉄炮方を勤め、武術は父景充の謙信流兵法を継いで師範となり、隠居の時期は未詳ながら明治二年に死去した。その子忠治景隆は代官を勤め明治二年死去した。その跡を養子貫蔵房忠が相続、荒木田を本姓一戸に改め一戸房忠と称した。当主一戸薫氏は北海道に在住する。歴代の墓地は盛岡市名須川町の東顕寺にある。 諸士リスト(あ行) 盛岡藩士の家系メインリスト |