阿野 あの |
阿野 正家 |
明治元年支配帳に阿野 正家がある。『参考諸家系図』によれば 盛岡藩の家臣に阿野兵部則親を祖と伝える。則親は近江阿野(穴太)村の人。永禄中武者修行の道すがら紀伊の根来一揆に党したという。一揆離散後逃れて奥州に下り、葛西一揆には葛西壱岐守晴信の客分となってその軍事を扶けた。葛西氏没落後流浪して遠野に住居。のち京都商人田中清六の推挙により南部家に仕官し妻子扶助料若干を与えられ咄役となった。ある狩猟の時、鉄炮の達人の名声あり、試打ちを命ぜられ連射して九匹の鹿を討ち留めた。ために鹿討の姓と千二百石が与えられた。のち彦九郎政直に仕え、花巻に移り寛永二年同所で死去した。長男則実は初め鹿討太郎兵衛、のち阿野彦十郎と称した。慶長十七年則実は父の願により召出され、百石の采地を領して長柄奉行を勤めた。寛永三年将軍上洛の時に供、同四年八戸弾正が遠野へ転封の時上地となり、仮として現米三十七駄を与えられ、後本禄となった。その跡を三ヶ尻弥兵衛吉賢の五男吉久が相続した。吉久は初め鹿討嘉右衛門を称し明暦中に名を阿野太郎兵衛と改め、以降代々阿野氏を称した。その後郡山町奉行を勤め同十一年死去した。吉久の跡は太郎兵衛吉賢が相続、父に継いで郡山町奉行、のち郡山通代官を勤め、元禄十四年隠居し正徳元年死去した。その跡を太郎兵衛吉忠、実は吉賢の外甥小西庄左衛門吉次嫡男が相続し享保五年隠居した。吉次の跡を慶右衛門則胤が相続、享保十二年足高新田二十六石を加増され百石となり、目付、寺社奉行等を勤めた。元文元年者頭格で幕府の軍役・遠江大井川普請場立奉行を勤めた。寛保三年目付再勤、その年長崎御用銅に係る事件で禄七ヶ一を収められ残り八十六石となった。のち者頭、用人を歴任、宝暦二年十四石を加増され百石に復し、更に翌三年百石を加増され二百石となり花巻郡代となった。同十二年隠居し間もなく死去した。則胤は梅渓その他を号し、天文を帷子可有に甲州流軍学を松岡周賀慈門に学び、尤も天文を以てあらわした。著書に自学集がある。則胤の跡を兵部左衛門則英が相続した。その跡は寛政四年に彦左衛門、同八年に彦吉、文化九年に実弟太郎兵衛と相続、太郎兵衛は新田披立高一石七斗七升二合を加増され、合わせて二百一石七斗七升二合を食んで嘉永四年死去した。その跡を貞右衛門が相続、次いで元治元年に兵吉、同年に向井外記の弟正則明と相続した。則明は雫石通代官、厨川通代官を歴任した。その跡を文男、てつと継いだ。歴代の墓地は盛岡市南大通の円光寺にある。 諸士リスト(あ行) 盛岡藩士の家系メインリスト |