赤沢 あかざわ

赤沢半左衛門家


 明治元年支配帳に赤沢半左衛門家がある。『参考諸家系図』によれば、普門院源覚の二男赤沢半左衛門吉将を祖と伝える。吉将は貞享五年召出され十駄三人扶持、高にして三十八石を食んだ。元禄五年三人扶持を停めて三十二駄を加増され締めて八十四石、宝永八年八十四石を地方に色替の上八駄加増、正徳四年足高新田百十六石を加増され締めて二百十六石となった。次役、小納戸、元〆等を勤め享保二年死去した。その跡を吉将の兄、本家源守の二男庄左衛門吉備が相続、徒頭を勤め同六年死去した。吉備の家督を庄左衛門吉福が相続し安永四年隠居。その跡を半蔵吉知が相続、目付、徒頭を勤め文化十四年に隠居した。その跡を半司吉寛が相続した。吉寛は柏台と号して俳歌を能くし、広く文人墨客と交わり多く世に知られた。文政四年死去した。吉寛の跡を半左衛門が相続。納戸役、沼宮内通代官を勤め、また積翠と号して俳歌、茶花を能くし太田南畝等と交わり、近世奇人伝にあるという。天保八年死去した。その跡を半蔵が継ぎ中奥小性を勤めた。次いで明治二年半司吉慶、その跡を半次郎、隆次郎と継いだ。隆次郎は弁護士として活躍し、盛岡市議会議長を勤め昭和十年死去した。現在家名は絶えて旧盛岡藩士桑田の権利継承者は盛岡市に在住する。歴代の墓地は盛岡市北山の源勝寺にある。

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