59 下小路御薬園お取り立て

愛宕山南斜面に下小路御薬園を創設 190211



  利幹公御代正徳五乙未年十一月晦日御留書抜
  去月十七日、左の者ども、下小路住居の者屋敷御用地に御取り上げ、引料金ならびに替地を下さる
一、三十両  内山吉太夫   川野利七屋敷を下さる
一、同    里見太左衛門  山屋勘太夫屋敷を下さる
一、二十五両 小山田久左衛門 鵜飼七兵衛屋敷を下さる
一、二十両  田中安左衛門  堀江藤左衛門屋敷を下さる
一、二十五両 小細工師阿部工心 浦上十太夫屋敷を下さる

 

 【解説】

 
■ 御薬園の創設

  下小路御薬園の創設は『雑書』寛文九(一六六九)年十二月十五日条に「御医師衆薬園の儀申上候所に、望みの通り仰せ付けらる由」とある。御薬園は現在の盛岡市中央公民館所在地を中心に存在していたという。

  この記録は正徳五(一七一五)年に御薬園地内に御殿・茶屋などを造営し、林泉などを構えるために御用地として転居を命ぜられた諸士の名簿。文化三(一八〇六)年の『諸士屋敷地並建屋図面書上』によれば、内山吉太夫の末裔喜幸太は上田門前町に、里見太左衛門末裔金吾は仁王下の橋横町。小山田久左衛門、田中安左衛門、阿部工心に付いては史料散逸により不明であるが、鵜飼茂八(七兵衛の末裔)は仁王新丁下袋丁、堀江定之丞(藤左衛門の末裔)は餌差小路に移住していたことが知られる。

  『内史略』は関連して「正徳五年、下小路御薬園へ御茶屋御殿を建てる。木材御間数とも栗山大膳御預りの節の構のままなり、今本屋なり、この以前に御薬園に仰せ付けられ、薬草御植えなされ、見前道栄を附けなされ、差し置かせらる 三人扶持(高十八石)」と記述している。

  一方、『塵袋』四には「御薬園は行信公今の処を御撰み遊ばされ、種々の薬草を植え立て遊ばされ、見前道栄という医師に三人御扶持給わして、すなわち、その所へさしおかれ、四季の手入れをなさしむるという。正徳年中利幹公御代あらたに御殿・御茶屋を建てたもうてよりこの方、追々美麗を重々に尽くされたもうて御遊び随一の御邸とはなりぬ」と見える。

  また『参考諸家系図』巻七十三によれば、見前道永は「重信公の時刀差に召し出され、延宝八(一六八〇)年二月五人扶持(高にして三十石)を賜う。のち三両二人扶持(高にして三十二石)となる。御薬園御菜園御用を勤む。正徳二(一七一二)年二月死」とある。『雑書』は延宝八年二月二十日の条に「見前道栄、下小路御薬園に御付置成されるに付当月十七日より五人扶持方これ下さる」と記録する。

  これまでの所を整理するならば、寛文九(一六六八)年十二月御医師衆から薬園の造立に関する要望があり、翌年春頃から整備されていったものと想定される。文化九(一八一二)年の「下小路邸図」から推して愛宕山(現グランドホテル)の南斜面一帯が薬草の栽培地ではなかったろうか。延宝八年二月に見前道栄が管理人として配備されたのは、一層の整備が背景にあった故と想定される。

  見前氏の身分について『参考諸家系図』は刀差とするが、『塵袋』は医師と伝える。やはり本草学の素養を有する人物であったからこその任用と考える。

  なお『塵袋』には、御薬園の創設期を行信の代とするが、治世は元禄五(一六九二)年から同十五(一七〇二)年まで、となれば、冒頭にも示したとおり創設をみたのは寛文九(一六六九)年のことであり、重信の代のこと、明らかに誤伝である。

 しかし、『土芥寇讎記』によれば、重信を評して名将とし、その論拠を「なるほど穏和なる将にして慈悲あるゆえに家民ともに心易し、いまだ隠居せずと言えども内証は隠居に同じ、諸事にかまわず息行信の心に任すと聞こう」と記述している。

  ちなみに『土芥寇讎記』は幕府側の視点で元禄二(一六八九)年頃における諸大名の治世状況、評価等を記述している記録。このことから見るならば、世子行信が実際に藩政を動かしていた史実が垣間見え、『塵袋』に見られる誤解は、或いは藩士間における認識の範疇にあった可能性も考えられる。一概に否定は当らないのかもしれない。

  ■ 栗山大膳と配所屋敷

  御薬園が造立される以前のこの地は、既述の通り九州から配流となった謫人栗山大膳・雖失親子の構屋舗だったとする伝がある。再掲すれば「正徳五年、下小路御薬園へ御茶屋御殿を建る。木材御間数とも栗山大膳御預りの節の構のままなり、今本屋なり」(『内史略』)と。

  栗山大膳は諱(いみな)を利章といい、今度御用地として転居を命ぜられた諸士の一人である内山吉太夫の先祖、かつ、黒田騒動の中心人物である。

  黒田長政(筑前福岡城主・五十二万三千石)以来の重臣で二万石を知行していたが、長政の家督を襲封した忠之との間に確執が生じ、大膳は「主君忠之に謀反の意志あり」と上訴。その結果は、幕府の裁きにより忠之は家中取締不行き届きを責められるが構いなし。

  一方、大膳の身柄は盛岡藩が預かることとなった。大膳が上訴した真意は主家の存続を願ってのことであったといい、方長老はこの事件を通じて「大膳は一身を犠牲にして福岡藩を救った忠臣」と評し、『盛岡砂子』は「栗山大膳 黒田家之家中 忠節直諌士なり。寛永十(一六三三)年酉三月十六日御預四月四日着。承応元(一六五二)年辰三月二日午の刻死す」と記述。併せて「御預中の屋敷は今の御薬園也」と伝える。

  盛岡に配される時に長男大吉(のち雖失)、二男吉次郎も共に預けられたが、盛岡で三男孫之丞利政が生まれ、母方の姓内山を名乗り南部家に仕えた。

  吉太夫利久はその嗣子である。となれば、子孫内山家の屋敷が正徳五年の薬園拡張に際して移転を余儀なくしている理由は、本屋に居住していたための移転か、拡張区域内に居住していたためなのか、二者択一の疑問は生ずる。ただし、現時点では、残念ながら選択に資する記録は寡聞にして管見にない。

  ■ 安永七年の大火による類焼

  『篤焉家訓』二十三之巻は安永七(一七七八)年四月朔日にタ顔瀬片原丁から出火、焼亡合二千三百五十二軒、焼死三四十人とし、この時御薬園も大方類焼、「御本家御茶屋、御舞台焼失(鐘ツキ堂、小町堂ばかり残る)」と伝える(罹災者詳細は割愛)。

  ■ 下小路邸図から見た御薬園

  今一度「下小路邸図」を見る。
 邸の北境は愛宕山の山頂付近、西側は国道四号バイパス付近か、南は下小路の道路(閉伊街道)。東は食料統計事務所の東境付近か。屋舗図は実測図でないので現在地との対比は難しい。しかし、図面は左右を左二対右三くらいの割合で二分。右上部には愛宕山。山王社・毘沙門堂、観音堂などの小祠が見える。右下部は三つの中島を有する心字池があり、真ん中の島には鐘突堂と小野堂外がある。ここには元禄十五(一七〇二)年に釜石浦の漁師の網にかかり上げたとされる朝鮮鐘(現存・国指定重文)があったといい、「此音を発する時は究めて雨降ると云伝 平常音を出す事を禁す 音は細く高し」(『篤焉家訓』壱之巻)とも伝える。

  池の西南隅に州浜があって、ここに寄せ棟造り御殿があり、池に張り出して舞台が描かれている。『盛岡砂子』は、古老の説として、泉水は藩主(利視)自ら山装束にて作庭に当たった。「これより御裁前の異樹奇石等多く設られ、とりわけ夏日の納涼、また秋は高雄の紅楓霜に染て、一入(ひとしお)絶景の勝地成しなり」といい、また養源院(利雄)によって舞台が造営せられ、「諸士町人拝見仰せ付けられ、拝見場は御泉水の中に桟敷を架し、諸士町人の場割有りて拝見せしとなり」と言った情景も伝える。

  図面上下中間の所。泉水のすぐ上の所を一筋の小瀬が横断している。この堰は今も右手から左手へと流れている。 
 
 図左部は上中下段に三区分し、上段部はグランドホテルへの登坂路付近を北境として薬草園であろうか。中段部はかつての栗山親子の構屋舗であろうか、築山形式の庭園が描かれて旧本屋とする空間、これは安永七年の大火で焼亡後が描かれていることによるものと勘考せられる。

  南西部隅に相当する下段は、『国統大年譜』に「享保二十(一七三五)年九月十一日下小路稲荷御旅所御建立」とある城内鎮座の榊山稲荷御旅所の境内。庶民の参拝を許すために御薬園から分地して造立と伝える(山本縁増補『盛岡砂子』)。図面には「厳島・岩谷稲荷御旅所」(本殿は西を正面とする)と記載。現在に照らして、公民館敷地の西側駐車場から国道4号バイパスを含めた区域。或いは中村家住宅附近にも及ぶであろうか。

  御薬園管理者は、文化十三(一八一六)年に御薬園奉行を下小路御屋敷番と改称したが(『御家被仰出』)、文政十(一八二七)年座順には再び「御薬園奉行」とあり、天保十一(一八二七)年にまた下小路御屋敷番と改称(『御役順』)、廃藩で闕役(けつやく)となった(『覚書』)。

  ■ その後の変遷

  その後、安政元(一八五四)年に藩学明義堂の講義所が設けられたが、明治維新後は取り壊して水田となし、明治末年頃情景は「今わずかに泉水中州の面影を残すのみ」(山本縁増補『盛岡砂子』)であったが、明治四十(一九〇七)年に南部伯爵家の別邸新築工事が起工し翌年落成。昭和三十三(一九五八)年に市が買い入れて盛岡市公民館とし現在に至っている(「盛岡の歩み」)。なお現代の施設に全面増改築したのは昭和五十五年と聞く。


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