54 南部大膳大夫分国諸城破却共書上之事 |
記録の信憑性について検討を試みる 190107 |
【解説】
平成22年7月20日 工藤 利悦 南部信直が豊臣秀吉より旧領を安堵(ど)せられ、近世大名としての礎を築いたのは天正十八(一五九〇)年と伝えられている。 この時に秀吉より与えられた朱印状 は、現在盛岡市中央公民館に南部家旧蔵文書として伝蔵され、その文中に「家中の抱える諸城はことごとく破却し、彼ら妻子は三戸に引き寄せ召し置くこと」という一条がある。 今回の「南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上之事」(以下、「書上(かきあげ)」と略称する)は、これまで、右の指令に対応した処置の報告書とされてきたし、このシリーズ(内山助右衛門による館破却)でも、連署八人の花押がこぞって江戸時代に流行した明朝体の花押であることに、いささかの疑念を述べながらも、貴重な記録であると紹介して来た経緯がある。 明朝体の花押については、天正十九年か、十月二十四日付江刺兵庫あての信直書状(江刺家文書)が確認され、引き続き検討課題である。 城(館)主の分析 この記録を詳細に見ると、実は不可解なことばかりである。連署者の一人・南右馬助正慶(直義同人か)の居城浅水城がない。同八戸彦次郎直栄と八戸城主南部彦次郎は苗字を違えて記載するが同一人物。同南部帯刀義実の楢山城もない。小軽米城の「古左衛門佐」の「古」は先代の義。江刺家系図小軽米右衛門佐久俊譜に「政実没落後旧知により一円拝領」とある。久俊であれば「古」は不要。 一方、北系図も北九兵衛直継(剣吉城主南部左衛門尉信愛の三男)が拝領とある。直継は信愛の祭祀継承者。左衛門尉信愛のことならば、暗に後世の成立を立証しているもの。北氏は寛文五(一六六五)年に鹿角郡大湯城へ移転まで小軽米に在住している。同南部東膳助直重は長岡城主とあるが家筋不明であるばかりではない。長岡が南部氏の居城となれば、当時長岡を本貫の地とする長岡氏(千石)の居城が見えなくなる。 千徳城は一戸孫三郎持ち分と見える。一説には天正十五年に津軽為信に与(くみ)し、桜庭安房に攻め滅ぼされたとの伝がある。当時桜庭安房の居城ではなかろうか。ちなみに、桜庭氏は明暦三(一六五七)年に鹿角郡毛馬内城へ移転まで在城している。桜庭氏の居館を『系胤譜考』は三戸赤石城(岩手県史第三巻962頁は志和郡所在とする)とする外、『往古支配帳』や『三戸御居城之節前々舘』なども赤石城(郡名記載なし)とする。三戸赤石城は千徳へ移転する以前の居城であったろうが、千徳城を赤石城と別称した可能性はないのか。このことについては後考を俟たなければならない。 連署者で新井田城主南部彦七郎正永は名久井が本貫の地。名久井城主で見える南部中務と異名同人。新井田は五戸の新井田か八戸の新井田かに意見が別れる所。私見は持っていない。野辺地城主七戸将監直高は、七戸下野直道の嗣子。文禄元(一五九二)年部屋住で名護屋陣に信直の供との伝があるのに城主と見える整合性は。併せて野辺地城主の伝を有する石井伊賀の氏名が見えないなど謎が解けない。七戸城代官横沢左近は、横浜兵庫慶安の二男横浜左近慶勝の誤写か。慶勝は元和元(一六一五)年に召し出され、のち七戸城番を勤め寛永十六(一六三九)年に没している。従って時代が合わない。 そのほか大湯城や奥瀬城など重臣諸家の居館が見えない。増沢・板沢は阿曽沼氏一族の持城として散見するが、慶長五(一六〇〇)年に滅亡した阿曽沼氏の居城横田城はなぜに信直抱えで代官九戸左馬助なのか等の疑問は尽きない。 視点を替えて 既に『篤焉家訓』の編者も指摘するところであるが、領内の城館は四十八カ城に留まらない。 ちなみに『往古御支配帳』等は、天正十九年に加増せられた和賀・稗貫・紫波三郡の城館は内堀・新堀のみを記録して五十六城館を書き上げる。 この内「書上」と一致する個所は八戸・剣吉・名久井・櫛引・野辺地・七戸・浄法寺・一戸・軽米・野田・葛巻・花輪・毛馬内・新堀・厨川・沢田の十六カ所。「書上」に見えない城館は四十カ所を数える。ただし、櫛引・野辺地・七戸・一戸・新堀の城主についてはそれぞれ別人を記載する。書上は何を基準に選定したかの疑問が残る。 一方、「書上」にのみ見える城館は三十二カ所。内訳は信直抱とする代官配置の城館十四カ所を含め、和賀郡五カ所、稗貫郡四カ所、紫波郡五カ所、岩手郡五カ所・閉伊郡四カ所。その他九戸一揆に際し、九戸側に属した姉体・久慈城などがある。 とりわけ加増せられた新領地と、争戦した九戸一揆の戦後処理を強調した内容と読める。従って四十八という数字には「多数」の意味があることを見れば、ことさらに四十八を象徴して新版図を示したものと窺われる。 最近、本堂寿一氏(北上市立博物館長)は、この「書上」は城数四十八カ所(城)の内十二カ所が残存したとする目録であることに着目。結論として「書上」は草案の写し。「しかもそのとおりに城割りが行われたかは不明。よって史料自体としての信憑(しんぴょう)性については過大視できないと言わざるを得ない」との見解を示す。 改めて、『篤焉家訓』の記録は『藩譜拾遺秘』から引用とあるが、藩の公式記録である『御当家御記録』(別名・寛政御記録)等に採録されていないことなどから勘考し、草案の写しとする意見には一理あると言える。 しかし、記述する内容から後世の偽作とまでは断言出来ないものの、単なる誤写・誤伝の領域を超えており、草案の写しとも言い難い。この記録を留めようとした動機・意図はどこにあったのだろうか。疑問の解明は今後の課題としたい。 近日「試論」を公開する。大方のご批判をあおぎたい。 この書上げは転写の誤りからと推察されるが確認しているものだけで十数種ある。但し、連署者に花押影を付帯するのは唯一『篤焉家訓』のみであるが、何れも明朝体の花押影であることに充分なる史料批判の必要性を感ずる。 |