21 雑書 ざっしょ

藩庁文書 家老席日録


【藩の日記・年表】

盛岡市中央公民館所蔵・南部家旧蔵文書。189冊(盛中23-4─1)

【史料の概要】

収録年代は寛永二十一年から天保十一年まで197年間
編年体による家老席執務日誌(御表御用部屋御物書衆の書継ぎ記録)
うち明暦元年、同三年、万治二年、同三年、寛文四年、貞享三年、元禄元年、享保十一年、宝暦四年、文政三年、同四年、同五年、同六年、天保元年の15年分が欠落。この外正保元年、承応二年、寛文元年、元禄二年の4年分に一部の日録が脱落している。これを継承した記録として『覚書』(天保十一年から明治三年まで)がある。但し、『篤焉家訓』八之巻に、「寛永六年己巳四月十三日と有之雑書抜書 御本丸御三階鯱、先年大風にて一方落候処、段々物入共打続御延引、去月廿八日御用番ぇ御伺候処勝手次第に御繕候様に被仰出に付、奉行川守田弥五兵衛被仰付云々」の文言を見るから、寛永二十一年を遡って存在していたことが想定される。


【史料批判・雑感】

初期のものは領内隅々のことまでリアルに記載している。しかし、時代が若くなるに従い民政事項等の記載が後退する。職制の完備により目付所や勘定所など、末端組織の記録へと移行していったからだと推定される。しかし、藩政初期から後期にかけて領内に起きた事象を一貫して記載した公式記録であることに間違いはなく、史料としての価値は揺るがないものである。宝暦年間の部分等に補修書き替えした形跡が確認される。

なお、
『御側雑書』 正徳元年から明治二年まで 122冊、『奥雑書』 寛政元年から安政三年まで 22冊、『御在府御留』 寛文七年から慶応元年まで 127冊、『御用人所雑書』 元禄二年から明治二年まで 102冊、『御在所留書』 延宝五年から万延二年ま 90冊 などと対比しつつ見ることにより、江戸と盛岡の時間差、職務権限の相違等による事象の捉え方の相違などを浮き彫りにすることが出来る。

ほかに欠落している年次を補完する上では次の記録等が有効である。
『書留』131冊
『歴代御記録』 28冊
以上・盛岡市中央公民館所蔵
『古記録雑抄』 寛永十一年前後から天保末年まで 1冊
岩手県立図書館所蔵
特に伝存する『雑書』は寛永二十一年から始まるが、『書留』にはまま旧記によるとして、これを遡る事象の記録を留めている例もある。


【刊本】

盛岡市中央公民館は昭和六十一年から「盛岡藩雑書」の書名で刊行を開始し、平成十七年三月末現在、第十八巻・寛保三年迄が出版されている。なお、印刷所は第十五巻まで熊谷印刷。第十六巻以降は東洋書院に替わったが、十六巻からは巻頭に検索の便を考慮した目録が附されている。


【参考】

・天保十二年の組織改革により、老中詰の間(老中席)の事を表御用部屋、関連して御用の間御物書を表御用部屋御物書と改称される
・安政二年の組織改革では、表御用部屋御物書の定員十二人(内江戸詰<二人)が、八人に減員されている。外に御手許御雑書御調役が、天保十一年九月十六日に新設され、「勤向之儀は日々御本丸へ登城、御小性詰所へ罷出、御用透の砌は諸事御小性同様の心得を以て相勤申すべきこと」(『藩内勤務心得』)とあり、嘉永七年二月二十日に闕役(『御役順』)となっている。平士上座の役(『諸御役順』)とされていた。



【追記】令和三年十二月四日     工藤利悦

もりおか歴史文化館架蔵 南部家旧蔵文書「差上物 宝暦三年ー同十四年」の宝暦十四年三月廿一日条に次の記録が収められている。
心覚のため書き留めて置く

一、明暦二・三 万治四年雑書闕巻ニ付、平沢文助儀、桜庭丹波先祖御役勤中、書留有之段及承、写取候て此度指上候ニ付、是又入御覧候上、雑書扱之者へ相渡有来候、御留書一所に入置候様申付、御物書頭共へ相渡之


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