15 御領分通分諸上納金銭雑記 ごりょうぶんとおりわけしょじょうのうきんせんざっき

著者 古沢長作康伯

【藩の財政・経済】

 岩手県立図書館所蔵、新渡戸文庫    県図新34一37

【史料の概要】

 藩政初期の藩財政の一端を知る上で必見の書。本書には概歩(ならしぶ)制導入を計画し、天和二年を基準値として過去七年間の平均値を纏めらた基礎資料であると勘考される。

 具体的には天和二年における盛岡藩の高を二十四万九千七百六十七石、内御蔵入高十五万七千二百九十三石(1)、御給所高九万二千四百七十四石余(「御蔵米御給所高並御切米御金出高」の項)と総括し、郡別単位で村別に高が記載されている。天和元年の御蔵入高は十五万四千八百九十七石、給所高は九万二千四百八十石一斗(天和元年改とする郡別高の集計)であることも知られる。これとは別に郡単位で村の高を記載するものがある。一般には天和二年の村高として活用されている高である。しかし、それを集計した高は十四万八千四百三十一石(2)であり。(1)と(2)の差において内訳村高(2)が八千八百六十二石少なく、ここでは原因未詳(誤写脱落も考えられよう)とするが、村高とするのは明らかに誤解、改めて御蔵高であることを確認したい。藩財政の基盤は御蔵高の掌握なくしては成立しないことは不動である。本書の後半に記載されている「延宝三年より天和二年迄惣御年貢米之覚」は、将に七年間の平均歩率算定の基礎資料であり、基本的に初期概歩制(私は固定性概歩制度と仮称している)へ移行するために纏められた、極めて色彩の強い史料であると見ている。その他、おおむね天和二年を前後した時期の諸物価・駅逓・税制関係・その他各種条目などが納められてあり貴重な史料である。

 末尾に村木英蔵なる人物が「この書、古沢某なる者度料の司たる時書き記し候由、米内勝左衛門写し取り、同人より借用写す、文政四年三月、野田於官所写之」と奥書きしている。

【史料批判・雑感】

 盛岡藩は、年貢高の決定に際して、藩政初期においては検見制を以て一村一村を巡回し、これが完了迄は稲刈りは出来ず、まま稲刈り前に降雪に見まわれる事態もあったと伝えられている。従って、天和二年に時間の浪費と村々の労役および経費など、様々な負担の軽減策として、過去七年間の平均値を勘案した概歩(ならしぶ)制への移行を計画したらしい。そこには一条のただし書きがあり、異作の場合には百姓願により検見を実施しするとも定めた。

 民百姓のために「定免」(盛岡藩の概歩と異名同義語)とした幕府の施策とは逆の施策であったと知られる。 しかし、実施初年度から凶作に見まわれ、結果としてこの制度は失敗に終わっている。その後豊作の兆しがようやく見えた元禄 年の春、百姓労りの百姓自身が自己査定をする「自分検見」を実施するなどの経過を経て、改良型の変動性の概歩制で定着廃藩に至っている。『税毛歴代鑑』の項を参照。

 本書には異名本があることを紹介する。『篤焉家訓』二十一之巻には『御定目記』を書目とし、『南部叢書』第五冊には『封内貢賦記』の名である。『封内貢賦記』本は活字化されているため広く知られ、最も活用頻度は多いと推察されるが、誤字脱字・欠落などは他の二冊に比較して最も多い。三冊を校合の上活用されることをお勧めする。

【刊本】

『南部叢書』第五冊には『封内貢賦記』の名で収められている。

【著者・著書等】

 著者古沢長作康伯は、『御番割遠近帳』(盛中30・4一1?7)によれば、元文二年に父古沢理右衛門康綱の隠居に伴って家督(高六十石余)。はじめ理三郎、延享三年清左衛門、更に同五年長作と改名した。寛延二年御駕籠頭となり、宝暦七年小道具頭となる。同十四年沢内通御代官、明和四年飯岡厨川通御代官となったが、翌同五年から若殿様(世子利正)御側、安永三年に御勘定頭となった。その後天明四年に奥使となり、寛政四年江戸より帰国の途次、中畑新田駅で病に倒れ、同地にて八月二十四日死去した。諸書は『参考諸家系図』(盛中29・1一071)の記事から推察したものであろうか、本書の著者を古沢清左衛門とする。しかし、清左衛門は若い頃の三年ほどの間に使用した名前。まして本書が成立をみたのは、勘定頭勤中の安永三年から天明三年と考えられるから、古沢長作康伯と改めるべきと思う。墓は永泉寺にある。米内勝左衛門は文政年間に安俵・高木通代官を勤め、同十一年老衰により隠居したことが知られている。村木英蔵は文化五年父周平死去により跡式(高廿五駄)、文政三年七月野田通代官を勤めた人と知られている。


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