89 盛岡城町割りのこと



或時諸奉行を召宜敷町割は一ノ字か五字か其宜は如何と宣ふ、満座其故を不知、北尾張守信愛入道松斉答曰、五の字可然と云、
公悠然として予も亦然り、面々如何と宣ふ、皆其故を不存と申、公松斉に向ひ玉ひ其故を説面々に知らしめよ、松斉謹て鹿波愚按尊慮に不可當、然共先大理を察するに、一は一重にして長く、五は井田の丸く少く四方に道の道の便利有之、當今町割の見透をを厭通用自由の形なり、
是より南の国には諸国の諸将参観交代往還之旅人旅行の便利有るを以駅宿は可及申、城下共に只町割を一重二重にして先後へ長く繁昌とす、他国へ通行の旅人商売を利とする故なり、左様之地にて五の字を用るは通用は栄ひ影町は衰ふへし、是自然之理り也、
当所は諸国の往還には無之袋の如くにして地売地商を本とす、此故に城を二重三重前後左右に囲町には侍丁町屋続只少く厚きに益有、又長き町にはひつみを付けて見透を忌之理則五の字に叶ふ、我諸国を見るに當其心なり、敢て国の中にも本城と端城とに又其心持あり、其外の事は公ぇ尋可奉と云へば満座一同に感心せしと云ふ


【読み下し文】

■盛岡御町割のこと
あるとき諸奉行を召して、よろしき町割は一ノ字か五字か、そのよろしきはいかんとのたまう。満座その故を知らず、北尾張守信愛(のぶちか)入道松斉が答えていわく、五の字しかるべくと言う。

公(利直)悠然として予もまたしかりと、面々いかにとのたまう。皆その故を存ぜずと申す。公、松斉に向かいたまい、その故を説き面々に知らしめよと。松斉謹みて愚案ずるに尊慮(利直の考え)には当たるべからざれども、まず大理を察するに、一は一重(ひとえ)にして長く、五は井田の丸く少く四方に道の便利これ有あり。当今町割の見通しを厭(いと)い通用自由の形なり。

これより南の国には、諸国の諸将は参勤交代往還の旅人、旅行の便利あるをもって駅宿は申すに及ぶべく、城下ともにただ町割を一重二重にして先後へ長く繁昌とす。他国へ通行の旅人は商売を利とする故なり、左様の地にては五の字を用るは、通用(前の通りか)は栄え、影町(裏通り)は衰うべし。これ自然の理(ことわ)りなり。

当所は諸国の往還にはこれ無く袋のごとくにして、地売・地商を本とす。この故に城を二重三重前後左右に囲み、町には侍丁・町屋と続き、ただ少く厚きに益あり。また長き町にはひつみ(升形)を付けて見透しをこれ忌う理、すなわち五の字に叶う。

我れ諸国を見るに當(まさに)その心なり、かつて国の中にも本城と端城とに、またその心持ちあり、その外の事は公へ尋ねたてまつるべくと言えば、満座一同に感心せしと言う。

【解説】

盛岡城下建設に際して基本的な構造を伝える既に周知の説話である。

かいつまんで言えば、利直は、基本的な縄張り(構造)について群臣に問うたという。しかし、群臣はその設問の趣旨を飲み込めずにいた。北松斉が利直の構想を代弁して言うには、旅行者の利便を図り、屈折のない一字型の町にすべきか、見通しを遮るために丁字形を取り入れた五字型をイメージした構造の縄張りにすべきかの下問であり、自分は五字型の方が良いと思うと述べたので、一同も合点したということのようである。

しかし、この説話の史実性は限りなく希薄である。
北松斉は慶長十八年(一六一三年)に死去したと伝えられているが、参勤交代の制度が出来たのは寛永十二年(一六三五年)のこと。二十数年後に参勤交代の制度が出来ることを予測した発言であったということなのだろうか。
ちなみに重直の参勤遅延による逼塞(ひっそく)事件は翌寛永十三年に生じている。

■ 盛岡城の縄張り
盛岡城下に限らず、どこの城下町にも通じるのだが、城下への入り口には升(ます)形があり、丁字路の一つ二つは必ず設けられている。ただし一本道の城下町は存在しないと考える。

本文で問題としていることは、縦横の道路が十字路となっているか丁字路状であるかの問題であろう。

それについては丁字路を意識した主張、たしかにそれも城下町として特徴の一つである。全般的に見るならば、本城は旧北上川と中津川の落ち合うところに張り出した河岸段丘状の先端に本丸を据え、北東に向けて中の丸・二の丸・三の丸と連立、これを腰郭(こしくるわ)が取り巻く内曲輪(うちくるわ)を構築。この個所が現在の岩手公園になる。

その北部に重臣諸士の屋敷を配置する外曲輪(内丸)を構え、その北側と東側に外堀をめぐらして遠曲輪を形成。遠曲輪内に諸士屋敷、町屋敷(現在の本町通や肴町など)を配置しする惣構えの城郭であった。

各曲輪を結ぶために内曲輪と外曲輪の間に鳩御門があり、外曲輪と遠曲輪の間には三門が開かれ、北へは追手御門(大手先駐車場付近)を構えて本町と結び、三家の筆頭八戸家が警備の任にあたった。

南東には中津川の対岸に配置した呉服町と紺屋町への通路として中ノ橋御門を構え、この門は准大手門の役目を担っていたので中野家が警備した。

今一門は西に配置した侍町への通路として日影御門(ヒノヤタクシー付近)があった。この門は北家が警備した。

城下の外へ出るためには、十カ所に惣門が置かれ、高知諸家が輪番で警備した。江戸・仙台方面に通じる惣門は北上川に架かる新山船橋際に新山橋詰惣門があり、江戸街道のほか遠野街道や宮古街道へも通じる新山惣門(木津屋商店の処に遺構がある)付近一帯は現在でも惣門と呼ばれている。

北への通路には四ツ家惣門、続く上田組丁の先に上田惣門(五叉路附近)があり、鹿角街道・雫石街道に通じる夕顔瀬橋詰惣門は北上川左岸夕顔瀬橋たもと(東北銀行支店付近)にあり、その他閉伊街道に開かれた下小路出口惣門や、仁王惣門、加賀野惣門・寺町惣門・八幡出口惣門があった。

一般に城下町の特徴をとらえる際に幾つかの視点がある。その一つは大手門と大手町が仙台のように直角である場合を立町型、盛岡城のように大手町(本町)が大手門を横切るような町づくりであれば横町型と区分している。

また惣堀(外堀)の占める位置によって総郭型・内町外町型・町屋郭外型といった区分がある。盛岡の基本である惣堀(外堀)の中に町屋敷(商人町)までを包括している類型を総郭型という。中世から継承されたもので、代表的なものには大坂や館林等がこの類型に属する。

豊臣家滅亡の時、冬の陣講和に際して徳川家の策略によって大坂城の惣構え(外堀)を埋め立てたため、翌年の夏の陣には無防備の城で戦を余儀なくされて滅亡したことは有名な話である。

次いで出現するのが上級諸士と主要町屋区域を惣郭の中に取り込んだ内町外町型である。基本的には総郭型の総郭を縮小した形ではあり、逆に城下が総郭の外へ拡張した場合にもこの類型に移行する。

ここまでを見るならば、盛岡は基本的には総郭型に属するのだが、四ツ家惣門(正保図には上田出口と見える)の外、つまり曲輪外に何かの都合で上田三小路、及び仁王惣門の外に仁王小路(侍屋舖)並びに田町(のち三戸町)や久慈町(のち材木町)などが配置されており、この類型に属するとみられよう。

隣藩秋田佐竹領内では本城である久保田城下をはじめ、横手・大館・角館・十二所など内町(家臣団の屋敷町)と外町(商人町)区分し、現在でも名称は厳然として生きている。岩手県内では仙台領であった水沢や金ヶ崎・岩谷堂(江刺市)のほか、一関においても見ることが出来る。そのほか、町屋を郭の外に形成する「町屋郭外型」があり、八戸や弘前・米沢・会津若松などに見ることが出来る。


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