21 内山助右衞門奥北の館破却之事

領内十二城存続、三十六城破却の記録


        内山助右衞門奥北の館破却之事

浅野弾正長政は九戸七人生捕を被召連登り玉ひぬ、蒲生氏郷は糠部に残り九戸の城を普請せらる、依て長政も家臣内山助右衞門と云者、人夫百余人に足軽相添糠部に残し置、氏郷ぇ合力せらる、其後氏郷内山ぇ被申けるは、最早普請成就の期も近し、貴辺は弾正殿如被申置諸方へ駈け廻り郷村之館共を破却せられ候得、若し違背者有は其旨趣聞届我も罷越候はん、尤帰路の砌は可令同旅候と宣は、貴命に違背せす、先九戸近辺二戸・鹿角の両郡へ打入破却七舘、所謂二戸郡には[(空欄)]等也、鹿角には大里・湯瀬・小豆澤・黒土・長岩(長峯ヵ)・谷内等、但、花輪・毛馬内・大湯・長牛右三(四)ケ所秋田境の要地なれは関城の為残置、一戸・八戸・北郡等は信直居城三戸近辺にて信直私の破却も可然候とて、此地の事をは被止ぬ、去共櫛引・七戸、九戸一味随一なれは、長政も気遣被思召、居城館共成とて氏郷の下知にて破却せらる、去共七戸の城は津軽の押残置ける、其外の館共は信直の下知にて来春より夫々被破却可然と氏郷も数々宣けり、既に九戸普請成就しけれは、氏郷も上洛の用意有、内田氏郷ぇ伺ひけるは、岩手・紫波・閉伊等の館も今に廃破不仕候間、我々跡々に残りて破却次第罷登り可申哉と云けれは、其辺一人捨置も気遣なり、未半廃却候共我等と一所に被罷登候へ、帰洛の節に放火して可通と子細なき事にこそとて岩手・閉伊・志波・和賀・稗貫等の館共信直の手にて来春破却せられよと信直へ被申置、岩手・紫波・和・稗二郡は帰陣仕候砌道筋舘斗被破却けり、岩手には不来方の中野・福士の両館、紫波郡には高水寺城、稗貫にては鳥谷ケ崎斗りは被残けり、其外居館は悉く破却、是より領主平屋敷に住し或は三戸に屋敷を構て勅仕す
 


  【読み下し文】

  ■内山助右衞門、奥北の館破却のこと
 浅野弾正長政は九戸七人生け捕りを召し連れられ登りたまいぬ。蒲生氏郷は糠部に残り、九戸の城を普請せらる。よって長政も家臣内山助右衞門という者に、人夫百余人に足軽を相添え、糠部に残し置き氏郷へ合力せらる。
 その後、氏郷、内山へ申されけるは、もはや普請成就の期も近し、貴辺は弾正殿が申し置かせられしがごとく、諸方へ駈け廻り、郷村の館どもを破却せられ候え。もし違背の者あらばその旨趣を聞き届けよ、われも、まかり越し候はん。もっとも帰路のみぎりは同旅せしめべく候とのたまえば、貴命に違背せず先ず九戸近辺・二戸・鹿角の両郡へ打ち入り破却七舘、いわゆる二戸郡には[(空欄)]等也。
 鹿角には大里・湯瀬・小豆澤・黒土・長岩(長峯ヵ)・谷内等、ただし花輪・毛馬内・大湯・長牛、右三(四)カ所は秋田境の要地なれば、関城のために残し置く。
 一戸・八戸・北郡等は信直の居城三戸近辺にて、信直私の破却も然るべく候とて、この地のことをは止めらぬ。されども櫛引・七戸は九戸一味随一なれば、長政も気遣い思し召さる居城館共なりとて、氏郷の下知にて破却せらる。
 されども七戸の城は津軽の押に残し置ける。その外の館どもは、信直の下知にて来春よりそれぞれ破却せられ然るべくと氏郷も数々のたまいけり。
 すでに九戸普請成就しければ、氏郷も上洛の用意あり。内山、氏郷へ伺いけるは、岩手・紫波・閉伊等の館も今に廃破仕まつらず候あいだ、われわれ跡々に残りて破却次第まかり登り申すべきやと言いければ、その辺一人を捨て置くも気遣いなり。いまだ廃却候はんともわれらと一緒にまかり登られ候え、帰洛の節に放火して通るべくと子細なきことにこそとて、岩手・閉伊・志波・和賀・稗貫等の館どもは信直の手にて来春破却せられよと信直へ申し置かせられ、岩手・紫波・和賀・稗貫二郡は帰陣仕まつり候みぎり道筋の舘ばかり破却せられけり。
 岩手には不来方の中野・福士の両館、紫波郡には高水寺城、稗貫にては鳥谷ケ崎ばかりは残されけり、その外居館はことごとく破却。これより領主平屋敷に住いし、あるいは三戸に屋敷を構えて勅仕す。『祐清私記』

 【解説】天正二十年(一五九二年)に南部信直は、豊臣政権に領内の諸城四十八カ城を書き上げ、そのうち存続する城は十二カ城、残り三十六カ城は破却したと報告している。
 「内山助右衞門奥北の館破却の事」は、一見して天正十九年に滅亡した九戸政実一揆の戦後処理に関する記録であるが、内実は、天正二十年の書上が成立するに至る過程を知る上で、きわめて貴重な記録なのである。
 それを説明するためには、天正十八年に信直が豊臣秀吉から旧領七郡を安堵された時までさかのぼらなければならない。
 旧領安堵の朱印状は五カ条からなる。
 二カ条目は信直の妻子を豊臣氏の城下である伏見(京都府)に(人質として)定住されることの指令であるが、四カ条目は「家中の者共相抱え、諸城はことごとく破却せしめ、すなわち妻子は三戸へ引き寄せ召し置くべきこと」。つまり領内諸城の破却を実施し、中央集権化をはかるべしとの申し渡しであった。
 しかし、九戸騒動の終結に至るまでは、諸般の事情から、諸城の破却は手付かず。どの城を存続させ、どの城を破却するのか、いわゆる城割の方針さえできていない状況であったと考える。
 天正二十年の書上(原本は散逸)は、それを成し遂げた結果の報告書であり、その意味において「内山助右衞門奥北の館破却之事」は、この間の事情を知る上で重要な記録なのである。天正二十年の書上は、原本は散逸しているものの、写本は諸書に「南部大膳大夫分国諸城破脚共書上之事」として納められている。従って魯魚の誤りというか、転写の際に犯した誤写などにより諸説を生じ、かつ傍証史料がなく、正確を期することはできない。その上で、「内山助右衞門奥北の館破却の事」と対比するためあえてその概要を紹介すれば次の通りである。
 存続となった十二城の内=稗貫郡鳥谷崎城(花巻市)、稗貫郡新堀城(石鳥谷町)・岩手郡不来方城(盛岡市)・閉伊郡増沢城(宮守村)・糠部郡三戸城(青森県三戸町)・同郡名久井城(同県名川町)・同郡剣吉城(同県名川町)・同郡野辺地城(同県野辺地町)・鹿角郡毛馬内城(秋田県鹿角市)・同郡花輪城(同県鹿角市)以上十カ城
 破却となった三十六城の内=和賀郡鬼柳城(北上市)・同郡岩崎城(北上市)・同郡二子城(北上市)・同郡安俵城(東和町)・稗貫郡十二丁目城(花巻市)・同郡寺林城(花巻市)・同郡大迫城(大迫町)・志和郡肥爪城(紫波町)・同郡乙部城(盛岡市)・岩手郡栗谷川城(盛岡市)・同郡下田城(玉山村)・同郡沼宮内城(岩手町)・同郡一方井城(岩手町)・同郡雫石城(雫石町)・閉伊郡横田城(遠野市)・同郡板沢城(遠野市)・同郡千徳城(宮古市)・同郡田鎖城(宮古市)・糠部郡姉平城(一戸町)・同郡一戸城(一戸町)・同郡葛巻城(葛巻町)・同郡野田城(野田村)・同郡久慈城(久慈市)・同郡種市城(種市町)・同郡古軽米城(軽米町)・同郡金田一城(二戸市)・同郡浄法寺城(浄法寺町)・同郡櫛引城(青森県八戸市)・同郡八戸城(八戸市)・同郡新井田城(八戸市)・同郡中市城(同県倉石村)・同郡澤田城(同県十和田湖町)・同郡七戸城(同県七戸町)以上三十三カ城
 存続・破却両説が錯綜する城=和賀郡江釣子城(北上市)・志和郡片寄城(紫波町)・同郡見舞城(盛岡市見前)・同郡長岡城(紫波町)・糠部郡洞内城(青森県十和田市)以上五カ城である。
 これによってどのような経緯から四十八カ城が選定されたものかなど、新たな疑問も生ずるが、旧領七郡とはどこかの問いにも答えている。糠部の範囲などもおぼろげに見えてくる。さまざまな視点でいろいろな見解がわき出ることを期待したい。
     ■土へんに朶・あづち

 ■浅野長政、蒲生氏郷帰陣の時期

 浅野長政・蒲生氏郷が糠部から帰陣した時期を伝える文書は、寡聞にして管見にないが、一説として軍記物ながら『東奥軍記』(続群書類従所収)の一節を次に紹介する。

 「かくて弾正殿(浅野長政)、九戸を平均打ち治め、政実を始め降参の者共召連、九月八日糠部を打ち立ち、同十二日鳥谷ヶ崎(現花巻市付近)まで着玉う」。また蒲生氏郷については「一日逗留ありしかば、信直公色々ご馳走なされけり、この時氏郷御息女(一書妹とあり)を信直の御嫡子彦九郎(利直)殿へ進めべくと御約束あり、さて九戸の城(宮野城、のち福岡城と改称、信直・利直が居城とした)普請も出来しかば、城を信直へ明け渡され、十月上旬に登りけり」とある。

 浅野長政が帰陣のことに関連しては「南部信直も鳥谷ヶ崎まで見送りに出た給う」とみえる。後年盛岡城を築城することになるが、この旅中の内談が実現したものと伝えられている。

 なお、『東奥軍記』は軍記物のたぐいであり、目くじらをたてるほどのことではないが、「内山助右衞門奥北の館破却の事」が伝える「九戸七人生け捕りを召し連れ」の人数を八人とする一方、首をはねられたのは、ほかに政実の従者晴山玄蕃・小笠原与一郎があったとしている。ちなみに『祐清私記』「人質の者どもの事」の項には、九戸左近将監政実五十六歳(九戸城主)、櫛引河内守清長五十二歳(櫛引城主)、久慈備前守直治三十八歳(久慈城主)、七戸九郎家国四十三歳(七戸城主)、大里修理太夫親基四十歳(大里城主)、大湯四郎左衛門昌次(大湯城主)、一戸彦次郎実富(一戸城主)、圓子右馬助光種(圓子城主)と八人の名を掲げている。その他諸説錯綜してあるが、いずれにしても真偽については傍証するすべがない。



【16.10.9後筆】
四十八について
 「鹿角由来集」に「慶長十一年夏、桜庭安房守追て舘崩御廻し成され候。先年内山助右衛門廻り候時、急用に付罷登り、相残したる所あるに付、安房を遣され候。其刻も長牛へ参られ、右之通り桧山勢の時、覚之舘に候間居り申すべく候。其上比内大葛境に候、鹿角毛馬内城、花輪城、長牛城三つ崩さず指置かせられ候事」とあるほか、『篤焉家訓』八之巻には「一説に右諸城の外、宮古、田代の辺、大槌、遠野辺の城四五ヶ所も可有之、御書上には不相見得と云、信直公御代、天正十八年七月廿七日諸城悉令破却、妻子三戸ぇ引寄可召置之旨(藩譜拾遺秘之内、諸書より書翰写にあり)、秀吉公より命可因て諸方の城を破却し、亦慶長三年秋、家康公より諸大名ぇ御沙汰有之、諸城を破却し給ひ、不来方(今の盛岡城是なり)城斗を残し給ふ、花巻鳥谷ヶ城は故有てこわれ次第と被仰上しに依て今に残れりと云(東南深秘抄云、関ヶ原御陳之後、居城之外は館曲輪等、追々破却すべは旨欽命あり、大坂御陳以来猶々館等は諸国崩し捨らる。○同書云、天和(元和ヵ)元年十二月諸国の枝城を崩し、居城斗に可仕旨、将軍秀忠公より被仰出、依之森岡(こじかた)を居城と定め、外あずちは悉く崩し給ふとなり)とある。これらにより、天正十九年以降に、再度の破却事業が行われたことが垣間見える。それは取りも直さず、四十八城に数えられた城館は、領内全ての城館数でなかったこと。それでは四十八とは何を意味する数字であろうかという疑問である。四十八願、四十八手、四十八夜など。ほかに四十八鷹は「諸役人揃ひたるを四十八鷹揃ひてなど云」(『俚言集覧』)や、四十八佛には、諸々の意味があることから勘考されることは、多数存する城館の中から選抜した主な城と解すことで大きな誤りがなさそうである。具体的な史料批判は、今後の課題であることを書き留めておく。

「南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上之事」の作成とその歴史的背景について

【19.01.05】
私見 新たな疑問


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