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3 北十左衛門道心の事 2 |
祐清私記を読む |
【読み下し文】 十左衛門愁傷の涙かはかぬに、また憂きことの重りて、もっとも物寂しく暮しけれは、鬱(うつ)胸快れず、今閉門こそ幸せなり、上方一見に上り、日ころの鬱気を惰らさんとて、ひそかに住家を立ち出て、小保内山を打越仙北へ差しかかり、伊勢道を経てほどなく上方へ着きければ、京・大坂・伊勢・熊野をも一見し、その後紀州高野山に赴きて、ここぞよき住家とて住所を定める。 そもそも十左衛門、何とてわがままの行跡(おこない)するかその根元を察するに、数度の戦功励めども功もなし、その後かようの金山を見立て、そくばくの御奉公つかまつれども差したる賞にも預からざりければ、とにもかくにもこのたび十蔵が果てけるも、ひとえに君の御短慮ゆえ、十六、七の童子に討手をおおせつけられし故なりとて深くうらみたてまつりぬ。誠に思慮のほどこそつたなけれ、これ勇も血気とぞ聞こえたり。 十蔵手負いのこと異本いわく。十左衛門、一年鹿角より盛岡へ移り住みぬ。時に屋形(やかた=利直)より何某(なにがし)といふ者、罪有るによつて十左衛門に御預けなり。この人死罪決まり、すなわち十左衛門宅にて討って捨てべくよし命有り。十左衛門、仰せをこうむり屋敷へ帰り、物なれたる家来にこのことを示す。 時に子息十蔵このことを聞きて、願わくばこのたび討手、それがしに仰せつけられそうらえかし。いまだ一度も手に合わせ候ことなきにそうらえは、末々稽古にしたく、ぜひぜひと言う。 十左衛門あえて許さす。この義一大事なり、若年にして敵は大強の者なり、なおざりにては叶うべからずと言いければ、十蔵しきつて願いけり。十左衛門ようやく許しぬ。その朝は十左衛門、心喜ばしくありとて、いつに替わり饗応美々しく飾りたて、十蔵をして膳をこしらえせしめ、囚人の前に置く。この人はかりことをば知らず。慎みていただくところ、上意と言いて脇差しをもって抜き打ちに切る。敵心得たりと、切られて倒れざまにヒ首(あいくち)抜きて払いけれは、十蔵の右の腕を切り(これまでは囚人の脇差などは取り上げ申さずと見えたり)、十左衛門その座にありしが、さては仕損じぬと思い飛びかかり切りとどめぬ。十蔵痛手にて日を経て相果て候よし。 また一説に、十左衛門何某を手討ちすべきことあり。時に十蔵しきりに望みてこれを打ちしに、右のことく難に遭うという。扱い諸説多しといえども、あらかじめ明かしたる本文は実儀と覚し、なお重ねて考えべし。 十蔵手負い申す七、八日前に、たわむれに右の腕を紙にていたずらに結ばれ、介添の僕(しもべ)に向かって、我ただ今あやまりて腕を切りたりと言いけれは、この男大いに驚き傷はいかほどとや、所は脈の辺にて大事にこざそうろうと慌て、外科などと騒ぎしかは、十蔵これ偽りなりとて紙をとかれしに、はたしてたはむれにてありし。その後かかる難に遭いしかども手所も違わず、これこそ前ぶれにてやありけんと、後に思い合わせけり。 【解説】 ■ 十蔵の居所 『篤焉家訓』八之巻には十蔵の居所について「清水屋敷と云て御田屋清水南、お茶菜園場という処なり」と記されている。ま少し坤(ひつじさる=こん=南西)の方に当たる。大沢川原の裏通りにしてお城の下なり」ともみえる。現在の産業会館ビルからみずほ信託銀行盛岡支店の付近に擬定されるだろうか。 ■ 十蔵の墓所 『篤焉家訓』十三之巻によれば、「墓所は聖寿寺北の山なり、盆中に茶店が有るの坂を上り、右の方に五輪あり、十蔵の墓印なりと云う。享保・元文の頃までは有りしに、今(文政年間)には見えず」と見える。1810年代にはすでに跡形がなかったことが知られる。 ■ 北十左衛門の生涯 北十左衛門の名は南部信景(なんぶ・のぶかげ)。別に信連、愛信などの名でも登場する。南部家を支えた重臣、北信愛(きた・のぶちか)の妹の次男として天正三年(1575年)に生まれた。信愛の後継ぎが死亡したため信愛の養子となつた。 慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで領内の和賀・稗貫地方で一揆が起こり花巻城が攻撃された時、十左衛門は兵五十を率いて戻り一揆勢を撃退。この功で南部利直に高く取り立てられた。 その後、白根山に金脈を発見して慶長七年(1602年)に奉行に任ぜられ、さらに金脈を発見し南部家に莫大な利益をもたらした。息子十蔵が返り討ちに遭って死亡したのは慶長十七年(1612年)のこととされる。怒った十左衛門はてい髪して部屋にこもって役職を放棄したため利直から謹慎を命じられる。ところが、これは次回以降に明らかになる大坂の陣で南部利直が陥った窮地と、北十左衛門の処刑という事件の伏線とも言えるものである。 謹慎を命じられた十左衛門は、南部家の大量の金を持ち逃げして豊臣方に走ったとされる。 最初の大坂の陣はその二年後の慶長十九年(1614年)である。十左衛門は豊臣方の一員として戦いに参加した。それが徳川秀忠に分かり、徳川方にくみしていた南部利直は窮地に陥る。生き残るすペは、ただ一つだったであろう。北十左衛門が勝手に出葬して豊臣方に走ったとするほかはない。利直はこれによつて南部の家を守った。だが、北十左衛門の行動の真意はどこにあつたのか。重い歴史の扉を開くのは読者の想像力かもしれない。 |