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楢山佐渡 |
人物志 220526 |
佐渡は幼名五左衛門、のち降吉とあらためた。帯刀降冀の庶子として天保二年に生れた。叔母烈子は藩主利臍の側室で、利義・利剛を生み、世々家老の職にあった家柄である。佐渡は十五歳で側役となり、二十二歳で家老にあげられた。家柄とは云い、卓逸した人であったことが知られる。 幼にして文武をはげみ、毅然一藩の柱石たらんことを期した。家柄から云えば、帥範を自邸に招いてもよいのであるが、家憲の厳格なのにもよるであろう、戸田一心統帥範の門に入るや、常に一僕を従い塾に通い、師弟や同門の礼を守ること固く、水を使うにも自らくみ、同輩奴僕を煩わさなかった。 家老に命せらるゝや、贈り物が八畳の室に一杯に積み重ねられた。佐渡は一々名を記さしめてから、ほどへて厚く祀礼をのべ返さしたと伝えられる。常に一藩の弊害は民政にありとし、一郡の代官としてその利弊を察しようとのぞんでいたと云う。されば各藩の制度をあつめ、得失を比較し、ときに市中を微行し民情を視察し、とき恰も嘉永百姓一揆の直後であったので、奸臣を斥け、弊政をあらため国政に刺すること多かったので、一藩慶してその英断に刮目したと云うことである。性剛毅、君命と雖も肯んじなかったので、しばしば斥けられ。さりなから謹直であったが、人と忤わず、下をあわれみ情ある人であった。佐渡と北共に戊辰の変に幽閉された佐々木直作は、佐渡は言葉寡く挙止端正で、平生の話は言語に限らある様にて、その外は自から判断せよと云う風な態度であったと云うことである。眼中人なき豪宕不毅の新渡戸伝でさへ、「那の和子さんの前にて論判する時は窮屈を覚える」と云つたことにみても、一般が知られるであろう。 命を奉じて京洛の間にあるや、鬼佐綬と云われたと伝えられる。薩長志士の遊里の間に流連することをいまわしいことにおもっていた。謹直の佐渡にはさもあろう。平生壮語はしなかったが、英風の自から人に憚らるゝものがあったものであろう。 藩の去就定ららず、藩論沸騰するや、野田廉平をして国情を報告せしめ帰国を促した。ために急遽大坂にて舟路についたが、遠州灘をすぐるころ、船は木の葉の如く、さながら空中に舞い上る躰で、一同顔色を失ったが、人々は端然自若たる佐渡を見て意を強うしたと云うことである。 佐渡の戊辰の変に於ける去就については、こゝに記すことを省く、長駆軍をひっさげて、ほとんど秋田城下にせまったが、鍋嶋の精兵の加勢のため、退くの止むなきに至った。佐渡の焦慮は察するに餘りある。一兵をも従えず、暗中に直立した堅装したゆゝしい姿、さては弾丸が雨霰ととびちる間に、悠々放尿した大胆さ、人々はその雄姿にいさみたったことは云うまでもない。「武士に鉄炮玉は当らぬものぞ、物蔭に隠れて百姓になり下るゆへ鉄炮に命打たれるぞ」と云ったと云う。 明治元年十月九日世子彦太郎が、九条総督の軍門に謝罪したが、佐渡は十一日佐々木直作・江幡通高と東京に護送せられ、翌二年五月二十二日旧領に差下さるゝの布告あり、城下に着して報恩寺に入った。 佐渡ときに年三十九、切腹を命せらるゝものとおもい、卑陋のことあっては一世一代の恥となるので食をとらず、ひたすらその日をまったが、処刑の日が長引き樵悴がいやが上に加わつた。六月二十二日いよいよ死刑が行わるゝ日には休浴して五体を清め、衣服を改め、幕を引きまわした書院の中央に座し、命をまつた。宣告文がよみあげらるゝや、切腹とおもったものが、刎首(はねくび)であったので、手をさげて承服はしたものゝやる方ない不満であったであろう。刀を手にとるや、いちはやく介錯人のおろす刀に首が地に落ちた。が、たゞ爛々たる眼が活くるが如くであった。 佐渡は身長五尺六寸にあまり、中肉にして白晢の美丈夫で、両手を握り悠々として歩むさまは、人々をして英姿を仰がしめた。時をへだった今日こそ順逆の罪を論ずるものがあろうが、当時藩中の故老で、佐渡を知るほどの人は、談、佐渡に及ぶや、いずれも力を入れて「佐渡サンは」と感じ入つたと云う。動息の間、起止の間に、自ら英風の欽慕すべきものがあったものであろう。 東京幽内中の七律と、山崎鯢山の碑銘を記して追憶の料とする。
【参考】 新聞紙上に展開した楢山佐渡論 谷河尚忠『戊辰前後の楢山氏』 |