圓子 まるこ |
圓子徳太郎家 250412 |
明治元年支配帳に圓子徳太郎家がある。『参考諸家系図』によれば 圓子九郎右衛門明親 の二男与十郎親良を祖とする圓子家がある。 親良は藩主利幹の代享保八年に無禄で召し出され御物書を務めた。同十三年江戸で二人扶持を賜わり、同十九年年功により四駄加増、更に宝暦三年二人加扶持、合わせて四駄四人扶持(高にして三十二石)となった。宝暦六年死去した。その跡を本家文五郎安親(実兄)の三男申八親惇(甥・与七郎・勇助・佐次助・茂左衛門)が継いだ。安永十年金子を差上げ足高 十八石を扶持にて加増され四駄七人扶持(高にして五十石),天明六年更に寸資金を献上して現米四駄を扶持方に色替えの外,金方四十石分、扶持方十石分を加増せられ,都合八両十人扶持(高百石)となった。天明九年死去した。その跡を栄治(嫡孫にして佐藤善左衛門次夷二男金左衛門の子ヵ、のち勇助)相続、寛政八年足高収令により家禄は元高四駄四人扶持(高三十二石)に返戻し文化三年死去した。その跡を定吉(圓子惣左衛門二男、常作、佐治助、安政三年死去) ー 徳太郎親馨(安政四年跡式)と相続。明治十年士族明細帳によれば東中野村二百七十三番屋敷に住居を有していた。
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