圓子 まるこ |
圓子九郎右衛門家 250412 |
明治元年支配帳に圓子九郎右衛門家がある。『参考諸家系図』によれば九右衛門儀親の四男圓子九郎右衛門明親を祖とする圓子家である。明親は重信の代に世子行信の中小姓として召し出され、六駄二人扶持(高二十四石)を知行した。のち御次役を勤めて元禄二年に九駄加増、さらに現米十五駄を五人扶持に替えられて七人扶持(高四十二石)となった。同八年七人扶持を停めて五十八石加増、地方百石となり、稗貫郡亀ケ森村(大迫町)に知行した。正徳元年の披立改有高三十石加増などで地方百三十石十駄五人扶持(高百八十石)となった。御者頭を勤め、同二年江戸で死去。麻布天徳寺内知走院に葬られた。その跡は文五郎安親(徳田伝法寺通代官など、寛延五年没) ー 寅平和親(のち九郎・九郎左衛門・文左衛門、御側役など、天明四年に十七石を扶持方に替えたほか四升六合加扶持を受けて高百八十石四升六合となる、同九年没) ー 隼太(のち九郎右衛門、大森佐左衛門忠囿の次男、大槌通代官など、文化十二年隠居) ー 貞作亀義(御徒頭・御用人側兼帯など)と継ぐ。亀義は天保四年金方六両加増で地方百二十三石六両十駄八人扶持四升六合(高百八十石四升六合)となった。甲州流軍学師範を勤めたとされる。その跡は九郎八(安政二年没) ー 廉太郎(のち九郎右衛門・九十郎)と相続。明治十一年の士族明細帳によれば東中野村(盛岡市)百五十八番屋敷に居住と見える。歴代の墓地は盛岡市の報恩寺にある。
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