圓子 まるこ |
圓子善治家 250412 |
明治元年支配帳に沼宮内御給人圓子善治家がある。『参考諸家系図』によれば丹治姓阿保氏末流花輪伯耆親行の子圓子帯刀延親を遠祖とし、圓子九右衛門儀親の三男圓子惣兵衛親治勝を祖とする圓子家である。 明治元年支配帳に沼宮内御給人圓子善治家がある。『参考諸家系図』によれば丹治姓阿保氏末流花輪伯耆親行の子圓子帯刀延親を遠祖とし、圓子九右衛門儀親の三男圓子惣兵衛親治勝を祖とする圓子家である。
花輪伯耆親行は代々鹿角郡(秋田県)花輪村に居住し、花輪氏を称したが、鎌倉御家人阿保七郎左衛門実員の庶流と目され、その分流に大里・柴内民らがある。天正十九年の九戸政実一揆の際し、九戸氏に党して滅亡したので伝を失い、家系は明らかでない。政実に加担した者として『南部根元記』は圓子金五郎を、『祐清私記』などは圓子右馬助光種を挙げ、『参考諸家系図』は、この家系を花輪次郎 の末裔とし、花輪伯耆親行の家とは別系に仕立てているが、推して所伝が錯綜したために生じた異説であると考える。親行の子、圓子帯刀延親の譜(参考諸家系図)には「天正中禄収めらる。のち更に糠部郡九戸の内圓子村(軽米町)に二百石を賜ふ。依って氏とす」と見え、諸書の記載を加味して考えると一族は信直に反する立場を貫き、天正十九年以前に花輪から圓子に移転していた者がおり、あるいは出羽、津軽(青森県)などに落ちた者があったこと、またのちに帰参する者もあったことをうかがわせている。圓子帯刀延親が花輪を上知となった時期を伝える資料はないが、大光寺左衛門佐正親が花輪城代に起用され、花輪村ほかに三千八百石を知行したのは天正十七年(誤伝と考えるが天正七年とする『祐清私記』説などもある)と伝えており、この時を遡る時期であるようにも勘考されるが定かではない。その子伯耆定親は藩主利直の代に家督。命によってい惣五郎と改名して慶長六年の和賀岩ヶ崎陣に従軍、戦功があったが、この時被った傷がもとで、帰還後死去した。その跡を嫡子九右衛門儀親(惣五郎)が相続した。同九年に御弓頭勤中に百石加増、三百石となった。のち三戸普請奉行を勤中に罪を被り所領没収せられた。のち寛永三年ヵ利直四男彦八郎利康の慶事かかる恩赦に浴して新たに七駄二人扶持(高二十六石)を知行した。『系胤譜考』よれば,大樋山田蔵奉行を勤めたとあるが誤伝ではないか。儀親に四男あり、長男を惣右衛門方親といい、重直の代に召し出され、のち厨川通代官等を勤め、元禄九年に死去した。子孫圓子出氏は福島県に在住する。家督は次男の九右衛門忠親が相続、親の跡役山田蔵奉行を勤めた。三男惣兵衛親治は重信の代に徒に召し出され、六駄二人扶持(高二十四石)を知行したが、のち禄を収められ、浪人のまま死去した。四男は九郎右衛門明親と称した。明親は藩主重信の時、世子行信の中小姓に召し出された。忠親の跡はその子長兵衛(のち長九郎・九右衛門親興、享保十四年隠居、元文五年没)ー 九蔵栄親(寛保元年隠居)ー 長太郎親修(のち九右衛門・九郎兵衛、寛政三年隠居)ー 千之助(のち九蔵、文政十二年隠居)ー 軍助(のち千之助、天保十年隠居)ー 善治と相続。善治は願いをもって安政四年に沼宮内通給人となった。その跡を善九郎 ー 百治 ー 伊三郎 ー 善一郎と相続、現当主の龍一は岩手町に在住する。
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