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塵袋 第20話 煤孫村の事 |
【解説】 「鬼柳文書」(中世文書)には須々孫で見える。 角川書店刊『日本地名大辞典』岩手県版 「煤孫」の項は次のように記述している。 煤孫 すすまご 北上市煤孫 須々孫とも書いた。北上盆地のほぼ中央西部、北を東流する和賀川右岸の沖積地段丘面上に位置する。南西 部は奥羽山脈。段丘崖の比高は30?40メートル 段丘は低位の金ヶ崎段丘が大半で、南西部で村崎野段丘・西根段丘が見られる。また段丘面上は南西部が高く、北東部にゆるやかに傾斜する扇状地で、八幡野・本郷野・法量野・宮沢野・観音野などが広がり、荒屋沢・熊沢・小坪沢・宮沢などの小河川が段丘崖を侵食して北東に流れ和賀川に合流する。地名の由来は、アイヌ語のススマク(柳などの湿地植物の繁茂する所)にちなむという説がある(郷土の地名と屋号誌)。 〔中世〕 須々孫 鎌倉期から見える地名。和賀郡のうち。「鬼柳文書」の和賀氏系図中に「頴々孫野馬」が見え、桜岳野馬、牧としての日戸郷・室対郷・梅木郷・江釣神田とともに和賀景行に譲られている。この所領分布を見ると、和賀川左岸は江釣子以西、右岸は梅木郷以西をその所領としている。いわゆる西和賀を所有していることになる。これは煤孫氏系図(県史3?753頁)に、和賀氏本宗より分かれた時須々孫村に住し、西和賀殿と称しているとあることに大筋で符合する。 景行の系統は、須々孫(煤孫)氏と称された和賀氏一族といえる。景行の子は、小野氏系図(続群7上・北上市史2)によると、右衛門五郎行盛である。行盛は、正応元年7月9日関東下知状によれば、葛西宗清らと中尊寺住憎との岩井・伊沢両郡の山野利用をめぐっての相論で、沼倉入道行蓮と共に、双方の主張を聴取記録し、相論の場の絵図を作成するための使者に命じられている(中尊寺文書/鎌遺22)。本来であれば、両者ともに、鎌倉に出向いて、お互いに訴陳(訴えとその反駁)をかわすのであるが、この場合は、相論の当事者の近辺の御家人が、互いの主張を聞き分け、証拠物件を提出する仕事をしているというきわめて特殊な例であろう。行盛は、さらに建武元年12月の津軽地方で反乱を起こした反建武政権派の降人である工藤左衛門次郎義村を預かっている(南部家文書)。以後も和賀(須々孫)行盛は、南朝方の陣営に参加している。 暦応3年6月になると、北畠顕信が顕家敗死のあとを受けて、陸奥国に入るという情勢逼迫の中で、9月には、鬼柳憲義・清義兄弟が奥州北朝方の大将石塔義房の下に参陣し、須々孫城を改めている(鬼柳文書)。観応3年10月7日付足利尊氏袖判奥州管領吉良貞家奉書(鬼柳文書)によると、和賀越前権守行義の所領が、惣領としての和賀薩摩守基義に宛行われている。和賀行義の旧所領は、文和2年11月3日の奥州管領吉良貞家奉書、同じく和賀基義遵行状(鬼柳文書)より、和賀郡の下須々孫村7分の1などの外、西方の出羽国仙北・山本両郡内3か郷であることがわかる。この分布より、行義は、須々孫氏とみてよいだろう。ただこの所領宛行は、南北朝に分裂しているこの時期にあっては有名無実であったと思われる。この須々孫氏と惣領和賀氏との確執は、南北朝動乱がおさまったのちも続いている。永享7年には、稗貫郡近辺および南部遠江守までも巻き込んだ騒動がおこっている(稗貫状)。この須々孫氏の居城であったのが、上須々孫城・下須々孫城である。上須々孫城は、東西400m・南北200mの平山城で、熊沢川を挟んだ東西南台地の先端に設けられている。東・西館には構築年代に隔たりがある。西館は、空濠で3つの郭をつくり、その先端部には、元亨3年3月13日の紀年銘をもつ板碑(種字、阿弥陀三尊)がある(岩手の歴史論集2)。東館は空濠で方形の郭をつくっている(城郭大系2)。下須々孫城は、古館神社の境内を包み込んだ形の台地上にある。古館神社がある主郭と後方に2つの郭をもつ東面250m・南北170mの平山城。空濠で郭は仕切られ、崖の下方には腰郭がめぐらされている(同前)。また神社の参道口付近には煤孫寺がある。この2つの城は、和賀川右岸の河岸段丘の端を利用し、しかもすぐ近くに小河川があり、水田が早くから開ける条件をもっている所に立地する。後方には、中世ではまだ水田化されない原野が広がり、さらに、その後方には駒ヶ岳がひかえている。前述したように鎌倉後期においては、須々孫は、「須々孫野馬」として記されている。 日戸牧も須々孫野馬も、馬を育成一管理する場所とする説があるが(岩手の歴史論集2)、野馬とは、野生の馬のことであり、系図中の「譲得所帯」の須々孫野馬とは、須々孫の地にいる野生の馬の取得権をさすものと考えられる。馬を囲い込む遺構が新平遺跡(日戸牧)でしか発見されていないのは、示唆的である。元禄8年の気仙郡末崎村誌所載文書(県史3?1016頁)によれば、中世までは、たるい山の野馬を「まき堀」という濠と土塁で囲い込み、年に1度ずつ野馬捕りをしていたという。捕狸された馬は、洗い浄められて、米ケ崎城に引き入れたという。また、洗い場のあるところには「蒼前はな」といって、馬頭観音社が祀られていた。蒼前とは、馬の蹄やたてがみを切って馬の手入れをすることをいう。これからわかるように、濠と土塁で野馬を囲い込んで放し飼いにしているのは、9、10世紀の東国の牧の実態に酷似する。須々孫においても、下頒々孫城下に、馬頭観音を祀る竜頭山馬峰寺(煤孫寺)があり、すぐ横を沢が流れている。また、和賀川による河岸段丘は、天然の野馬囲い込みの濠の役割をもつ。それゆえに、野馬を人為的に囲い込んで管理する場所と考えるのはつじつまがあわない。 須々孫には、前述した嘉祥3年慈覚大師の開基と伝える馬峰寺のほかに、駒ヶ岳山頂に馬頭観音を祀る駒形神社があり、中世においては、水沢の駒形神社の奥宮としてよりも、馬峰寺の奥宮として崇拝されていた。佐野地区には、慶昌寺と白鳥神社(現在合祀されて明神社)とがある。慶昌寺は、西和賀地方に檀家の多い曹洞宗の寺院で、建武年間に建長寺の泰頼和尚が、二子まで下り、やがて須々孫の長出に法噂庵を結んだのが始まり。永禄12年正源寺の道換和尚が、荒廃していた庵を復興させ、慶昌寺としたと伝える。この寺は、須々孫氏と深いかかわりをもち、それゆえ、須々孫氏の所領に檀家を多くもっていたと言われる。 白鳥神社は、和賀氏の氏神。戦国期になると、須々孫氏は、和賀氏の領主権力の再編成の下でかつての半独立的立場を失い、和賀氏の一族として臣従している。天正9年の和賀氏分限録(小田島家記録/北上市史)によれば、500石の知行をもつ「煤孫惣助」の名が、城持衆の中に見える。後述する「煤孫宗助」であろう。天正18年の和賀一揆潰滅の後、慶長5?6年の和賀主馬の一揆で、「煤孫野州」なる人物が花巻(鳥谷ケ崎)城攻撃と岩崎城籠城の軍勢の中に入っている。また、「煤孫宗助」の名も岩崎城籠城の軍勢の中に見える(奥南旧指録など/和賀氏一揆集)。煤孫氏系図(県史3)および「奥南落穂集」によれば、「煤孫宗助」は助三郎隆義にあたり、その兄弟の修理義清は慶長3年北信秀の家臣となり、以後盛岡藩士となっている。 角川書店『日本地名大辞典』岩手県版 |