4 和賀郡岩崎落城す  「篤焉家訓」

180212

    
一、慶長六年(一六〇一年)丑四月二十六日岩崎城陥ちる。御出陣総勢四千七百人、御
 帰陳の節三千余人

  【付せん】
 「奥南旧指録」と「岩崎軍記」には慶長六年丑四月二十六日落城、「御系譜」には四月
 五日とあり。



  【解説】

  短文ながら、ここには豊臣秀吉の奥州仕置(しおき)に滅亡した中世以来の和賀郡主和賀氏の遺児和賀主馬(初名又四郎)忠親のことが記録されている。

  忠親は慶長五年に挙兵、和賀郡岩崎城に籠もり滅亡した。いわゆる岩崎一揆のこと。

   ■遠因 和賀氏の滅亡

  関白豊臣秀吉が関東の雄である北條氏直父子を相州小田原(神奈川県)に征伐し、天下統一の覇業を遂げたのは天正十八年(一五九〇年)のことである。

  この合戦を称して「小田原の役」というが、奥州・関東の諸大名にとっては自家存亡を決定する意味において踏絵の役割を持ち、東北地方の歴史上では源頼朝による奥州征伐以来の重大な事件であった。

  豊臣秀吉の陣触れに対応して小田原に参陣、臣礼をとった大名は、同政権の大名たることを認知され本領の安堵(あんど)を得たが、参陣しなかった大名や遅参の大名に対しては、理由のいかんを問わず力によっても所領を没収するという強硬なものであった。これを奥州仕置と呼んでいる。

  しかして所領の安堵を得た奥州の大名には、南部信直(陸奥三戸城主)をはじめ、津軽為信(同堀越城主)、安東実季(出羽秋田城主)、戸沢盛安(同角館城主)、六郷政乗(同六郷城主)、最上義光(同山形城主)、その他の諸氏がある。

  伊達政宗(出羽米澤城主)は、会津・岩瀬安積の三郡をおさめられ、陸奥安達郡のうち二本松・塩松および本領である信夫・伊達・刈田・柴田・伊具・亘理・名取・宮城・黒川の諸郡、志田郡のうち松山、桃生郡のうち深谷、出羽国置賜郡と陸奥国宇多郡郡を与えられている。この時田村清顕の三春城をその臣片倉小十郎に与えられたが固辞し、この城も政宗に与えられている。一方、大崎義隆(同名生城主)、葛西晴信(同寺池城主)のほか、和賀義治(同二子城主)、稗貫広忠(同鳥谷崎城主)、阿曾沼広郷(同横田城主)ら諸大名・諸豪は没落した。


   ■明と暗とを分けた奥羽の山並み

  右のように明暗を分けた南部氏と和賀氏についてみてみよう。

  南部氏は天正十五年春、前田利家を介して関白秀吉に誼(よしみ)を通じ、翌十八年四月初旬小田原参陣のため三戸を進発した。

  しかし「国元にて一族の内蜂起のよし聞こし召されの間急ぎまかり下り相鎮め候へ(中略)もし当城永陣においては重ねてご催促(さいそく)あるべくの間、その節は緩み怠りなく早速まかり登るべきの旨仰せ出され候」(『南部根元記』)とのねぎらいをうけて五月上旬帰国の途につき、六月初旬三戸に帰着した。七月二十七日付で所領安堵の朱印状を請けている。

  一方、和賀氏は記録が散逸して不明な点は多いが、没落の原因にはいくつかの説がある。「秀吉公卑賎(ひせん)の身より天下を取り、日本国中掌握したまえば王孫の歴々も時の威にしたがいたまうとかや、またこれを本意なく思い参礼を遂(のが)す族も多かるけるよし」(『鬼柳文書』)としているのは、秀吉を侮って参陣しなかったとする説。

  「忠親年少にて自ら至るあたわず、南部侯の謀を用い筒井三郎左衛門某を遣(つかわ)す」、また「南部侯、浅野弾正と私議して謀し、会期に及ばず葛西、大崎と同罪、その官禄を没す」(『伊達世臣家譜』和賀譜)といった南部氏や浅野氏の謀略とする説などもある。

  仙台藩伊達家の正史『貞山公治家記録』慶長五年十月条は「そもそも南部元来は領主六人あり、その一人は和賀領主主馬、父を薩摩と称す。一人は郡山領主これを御所と称す(氏名知らず)、京都へ登るという。一人は岩手領主(氏名知らず)、岩手は後に盛岡と称す。一人は遠野領主(氏名知らず)、一人は九戸領主修理亮政実なり、一人は糠野部領主これ南部大膳大夫殿なり。浅野弾正少弼長政殿奥州下向の時、五人の領地を没収せられ、相併せて糠野部領主一人領主と成れり」としている。和賀氏の没落説はこれらから生じたものとみられる。

  所領を没収せられた大名は、おおむね奥羽山脈の中央分水領を境にして東側に集中している。実は当時の海運は、日本海航路が発達していて太平洋航路はまだ発達していなかった。陸路についても出羽路、北陸路が京への主要道となっていた。つまり天下の動向を入手していたか否かで対応の稚拙が分かれたとみるのが妥当だろう。それが明暗を分けた要因といえよう。

  謀略説は後世における不稽の説(つけたしの説)で、事実には当たらないと考える。

  かくして和賀氏は滅亡した。『和賀郡岩崎一揆之次第』ほかには、軍記物ながら「和賀義治参礼なく所領を召しあげらる。その年義治病死、第二男又二郎義忠、三男又四郎忠親、二子(ふたご)の城落ち、出羽北(北は山北か、仙北の古名)似田沢へ行けるに、兄又次郎疱瘡(ほうそう)にて死す、四、五年経て又四郎岩手山に行き、正宗を頼り、伊沢大林(金ヶ崎町)に忍び居りけり」と見える。


   ■岩崎一揆起きる

  歳月が過ぎて慶長五年、石田三成(西軍)が関ヶ原で徳川家康(東軍)と対峙(たいじ)している時に、会津の上杉景勝は西軍に応呼して旗を揚げた。

  南部利直は苦渋の決断を迫られて東軍に付いたことを『聞老遺事』は、「九月石田三成幼君豊臣秀頼の命を矯(ため)て天下を煽動し、徳河神君と雌雄を決せんと既に公を招く、公豊臣太閣の故恩を感じ、特に帥を出さんとす。徳河神君懇命あり、故にはじめて幼君(豊臣秀頼)の命に非ざるを知りたまい、三成を絶ちて徳河神君に従いたまう」と伝えている。

  かくして上杉勢と対峙する最上義光援軍のため山形最上へと出陣した。南部家はこれを最上陣と称している。

  その間を縫って和賀忠親は、故地和賀郡の回復を図り、花巻城攻城を図って兵を起こし、雌雄決せずして岩崎城にこもった。この報に接した利直は、すぐさま許可を得て、江刺家瀬兵衛に兵二百を預け十月八日帰国(『奥南旧指録』)。陣容を調えて十三日には稗貫郡に入り、十八日から岩崎城への攻撃を開始したという。

  その後、冬季間の休戦を経て翌六年三月中旬より再び開戦、四月二十六日に岩崎城は落城(『岩崎一揆由来』)したと伝えられている。これを「岩崎一揆」とも、「和賀一揆」や「和賀の陣」「和賀主馬の乱」などともいう。


   ■和賀氏・伊達氏の思惑

  仙台藩士和賀家所伝の『和賀系図』に従えば「慶長五年の八月、政宗が伊沢のうち水沢まで下向した際に和賀主馬を水沢まで呼び出し対面(中略)このたび和賀本城のうちにて要害よろしき所に籠城(ろうじょう)つかまつり候て、譜代の者どもを集め、南部を打ち禿げ申すべく候」ということになる。

  また武器・兵糧のほか軍勢についても白石相模(伊達氏重臣・水沢邑主)に申し付けているので「稗貫まで伐り取り申され候わば、その段を公儀へ申し上げ、ご奉公お申し候ように申し上げられ候うんぬん」とあり、挙兵を勧められたことを伝えている。

  さらに言うには「関東と大坂方が干戈(かんか)すれば、いずれかに勝敗が決する。この時に領分を切り取り押領しておれば、公儀(勝者)に申し上げ領主に取り立てられる可能性がある」と見える。

  しかし、伊達政宗は利直に疑心を抱き、上杉氏の挙兵以前から徳川摩下(きか)の上村茂助および今井宗薫に書翰を送り「南部境も種々六箇敷(むずかしく)ご座候を、われら使者を遣(つかわ)し候て上方のご様子もまた御為存ぜず逆意の旨少しも候わば南口(南部口)に人衆残し置き、われら馬廻りばかりにて南部にまかり出で候とも、即時に申し付けべく候条、いかが候はんとおとしかけ候へば、一段困り候て、今は何様にも与(くみ)申す事候間、近日仙北よりも最上口平らげ候て景勝一味の由候間、近辺戦中南部より仙北へ後詰め候べし申し付け候」という。

  最上に派遣していた伊達上野(のち水沢邑主)に対しても、南部氏の行動に注意するよう書状を認めている。

  元来南部氏が領分を保全し得たのは前田利家の尽力によるものであり、大坂方に一味しないまでも積極的に関東方に与(くみ)するとは考えられないとの疑心が、そこにはあったからであろう。

  伊達政宗の読みが正しかったか否かについては不明ながら、最上出陣中の利直が、和賀一揆蜂起を口実に撤退していること事態、上杉方に通じていたのではないかとの意見もある。

  岩崎城落城後、和賀忠親主従は仙台の国分尼寺で自刃、忠親の末裔は仙台藩士となった。しかし、悲劇はそれに留まらず、水沢邑主白石相模と共に和賀氏を内援した岩谷堂城主母帯越中は仙台藩の歴史上から抹殺されている。幻となった伊達家百万石の知行状と共に語る機会もあろう。


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