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48ケ城注文の明朝体花押について 因みに伊木蓑一著『大日本史講座 日本古文書学』(昭和16年)によると、明朝体は「上下の天平地平はかならずなければならぬ。この体は織田豊臣時代を経て、江戸時代に入り最も流行し、武家の花押は上下を通してほとんど之ばかりと云ふ観を呈した。蓋し家康がこの体を用ひ以下代々の将軍も多く之に倣ったことが主要な原因である」とある。 『篤焉家訓』に書写された8名の花押と同形のものを知り得ないが、明朝体がどのように普及したかを知ることのできる参考例として南部彦九郎利正(利直)が文禄4年(1595)11月18日の従五位下および信濃守叙任に関係したとされる同12月2 ̄日「南部信濃守宛浅野・長束・石田・増田花押状」(『盛岡南部家文書』)がある。その差出人は浅野長吉・長束正家・石田三成・増田長盛である。4人は前田玄以を含めて当時の五奉行であり、利正はこの4人から、御成の時には正装で出席するようにと命ぜられたものである。この書状に据判された4人の花押は、長吉は明朝体、正家は二合体、三成と長盛は別用体と見られる。すなわち中央においてもいまだ明朝体は一般化しておらず、その過度的段階にあったことを知ることができる。よって明朝体を基本とする南部家重臣8名の花押については天正20年においてそれぞれが具備し、署判したとは認めがたい。 |