天正18年豊臣秀吉朱印状「南部内七郡」の解釈と48ヶ城注文との関連について
 この件については本文で繰り返し述べることとなるがここで先にその総括としたい。
 『岩手県中世文書』下巻では稗貫・和賀・閉伊・志和・岩手・鹿角・糠部の七郡とする。これは48ヶ城注文の郡名に鹿角を加えたものであった。しかし48ヶ城注文は天正20年のことである。一方、秀吉朱印状の「南部内七郡」には稗貫郡・和賀郡は含まないという説が従来からあった。かって『岩手県史』第3巻は、北・三戸・二戸・九戸・鹿角・岩手・閉伊の七郡であり、和賀と稗貫は(秀吉直轄領として)含まれず、閉伊か志和についても問題残るとした。ところが、この説については糠部郡が北・三戸・二戸・九戸と分割されたのはその後のことと考えられる点から近年は支持されていない。一方、近年は糠部・鹿角・岩手・志和・久慈・遠野(保)の七郡とし、やはり稗貫・和賀を含まないとする説が有力である(細井計編集『図説岩手県の歴史』1995年)。『岩手県史』の見解は、糠部郡を北郡以下四郡としたこととは別に、和賀と稗貫を除いたことについて天正19年7月23日「前田利家書状」(『南部家文書』)に「貴所御分領之儀太願外に於此方迄に申合候」云々とあり、その決定を使者内堀四郎兵衛から南部信直に伝えられ、それによって志和・遠野・和賀・稗貫等の御本領を悉く信直に渡されたという『南部根元記』の記事に依拠してのことであった。それに対して和賀・稗貫郡を当初から「南部内七郡」とする説は「志和郡ら三郡加増説は、天正18年から翌19年の九戸の乱平定まで豊臣仕置軍がこれら三郡に駐留していたことは周知のことであるが、この駐留の事実をもって三郡が豊臣蔵人地となっていたとする根拠とはならず、また仕置軍引上げ後の三郡処置は『南部根元記』の「志和・遠野・和賀・稗貫等の御本領悉く南部へ被相渡」とある如く、南部氏の本領である三郡等を仕置軍が南部氏に渡しているのである。後者の説はこの記事を南部氏への加増と解しているのであるからそれは無理である」(渡辺信夫「天正18年の奥羽仕置について」『東北大名の研究』戦国大名論集2・昭和59年)といった見解に代表される。前述のように「前田利家書状」に「貴所御分領」とあったものを『南部根元記』は「御本領」と転記した可能性がある。この利家の言う「貴所御分領」とは『南部根元記』の意味合いとは別と解されるが、それにしても南部側は秀吉朱印状の「南部内七郡」だとして主張した形跡はない。そのことは「七郡」がその実数として表記されたものでないことを南部側は承知し、その後その対象外についても自領への確定を求めたということになろう。
 かつて古代(応徳3年?1086)において「閉伊七村」といった表現もあった(「前陸奥守源頼俊受領申請書」『平安遺文』古文書編第9巻4652号文書)ように、秀吉政権も南部内を漠然と「七郡」とし、異体的に何処々と確定してのことではなかったと見られる。志和郡については惣無事令達反の問題もあるし、遠野阿曽沼領については領主権没収・南部氏の附庸と伝えられても領地が南部領として認められたという確証はない。天正18年以降も阿曽沼氏と南部氏の確執が続いており、ましてや全く勢力の及ばなかった和賀・稗貫郡を「南部内」として認めたとは考えがたい。この旧和賀・稗貫領が秀吉直轄領(蔵人地)として除かれたかについては検討の余地はあるが、浅野軍が仕置軍の先遣隊としてここに駐留の本拠を置いたことは相応の理由がなければならない。しかし、南部領の南縁のみならず、南の木村領の北縁も曖昧であったことがお互いの主張となり、南部側はその併合を前田利家に働きかけたことは確かであろう。その結果が内堀四郎兵衛の報告であったわけである。時はすでに旧葛西・大崎領への伊達政宗の国替えが決定し、その居城岩出山城の修築も最中であった。この点で留意されることは岩出山城を修築にあたり、徳川家康が南部方面へ下向し、その時、岩出山実相寺の僧侶奪境が「鬼柳」まで案内していることである(岩出山町「実相寺由緒書」。伊東信雄『仙台郷土史の研究』)。この家康の「鬼柳」下向の日付と理由は不明であるが、前田利家から南部側への所領引渡しの報告を受けていた家康も政宗に岩出山城を引き渡してその境となった「鬼柳」を検分するために北上したのではないか。また『聞老遺事』によると「神君ハ一揆等カ没落ノ城々に御勢力ヲ籠置(中略)稗貫ノ城にハ本多豊後守康重、鬼柳に菅沼大膳亮足利(中略)仮に城ヲ守衛ス」云々とあり、天正19年に新たに守衛を配置したことを伝えた。南部信直の行動はこうした中央軍による処置を受けて本格化したわけである。よって48ヶ城注文の筆頭が稗貫郡の「鳥谷崎」であり、破却の対象も和賀・稗貫に始まることは「御分領」、すなわち和賀郡と稗貫郡の信直に対する引渡しに対応して処理すべき問題だったということである。つまり新領の加増と48ケ城注文は大きな関係を有したということである。
 以上の和賀・稗貫郡の「南部領」への確定が天正19年であることについては、伊達政宗の対応や、野長政の「太祖公済美録」の記述を交えて本論の5章において述べたので参照いただきたい。がその実数として表記されたものでないことを南部側は承知し、その後その対象外についても自領への確定を求めたということになろう。
 かつて古代(応徳3年?1086)において「閉伊七村」といった表現もあった(「前陸奥守源頼俊受領申請書」『平安遺文』古文書編第9巻4652号文書)ように、秀吉政権も南部内を漠然と「七郡」とし、異体的に何処々と確定してのことではなかったと見られる。志和郡については惣無事令達反の問題もあるし、遠野阿曽沼領については領主権没収・南部氏の附庸と伝えられても領地が南部領として認められたという確証はない。天正18年以降も阿曽沼氏と南部氏の確執が続いており、ましてや全く勢力の及ばなかった和賀・稗貫郡を「南部内」として認めたとは考えがたい。この旧和賀・稗貫領が秀吉直轄領(蔵人地)として除かれたかについては検討の余地はあるが、浅野軍が仕置軍の先遣隊としてここに駐留の本拠を置いたことは相応の理由がなければならない。しかし、南部領の南縁のみならず、南の木村領の北縁も曖昧であったことがお互いの主張となり、南部側はその併合を前田利家に働きかけたことは確かであろう。その結果が内堀四郎兵衛の報告であったわけである。時はすでに旧葛西・大崎領への伊達政宗の国替えが決定し、その居城岩出山城の修築も最中であった。この点で留意されることは岩出山城を修築にあたり、徳川家康が南部方面へ下向し、その時、岩出山実相寺の僧侶奪境が「鬼柳」まで案内していることである(岩出山町「実相寺由緒書」。伊東信雄『仙台郷土史の研究』)。この家康の「鬼柳」下向の日付と理由は不明であるが、前田利家から南部側への所領引渡しの報告を受けていた家康も政宗に岩出山城を引き渡してその境となった「鬼柳」を検分するために北上したのではないか。また『聞老遺事』によると「神君ハ一揆等カ没落ノ城々に御勢力ヲ籠置(中略)稗貫ノ城にハ本多豊後守康重、鬼柳に菅沼大膳亮足利(中略)仮に城ヲ守衛ス」云々とあり、天正19年に新たに守衛を配置したことを伝えた。南部信直の行動はこうした中央軍による処置を受けて本格化したわけである。よって48ヶ城注文の筆頭が稗貫郡の「鳥谷崎」であり、破却の対象も和賀・稗貫に始まることは「御分領」、すなわち和賀郡と稗貫郡の信直に対する引渡しに対応して処理すべき問題だったということである。つまり新領の加増と48ケ城注文は大きな関係を有したたということである。

 以上の和賀・稗貫郡の「南部領」への確定が天正19年であることについては、伊達政宗の対応や、野長政の「太祖公済美録」の記述を交えて本論の5章において述べたので参照いただきたい。

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