天正18年の秀吉の城わりが変化した背景についての諸説 ◎小林清治「仙台藩の成立と城・要害制」『仙台領における城と要害』日本 城郭史研究叢書2・昭和57年 小林は戸沢氏に与えられた「豊臣秀吉朱印状」の「分領城共悉令破却、居所可為一城候」やその他の類例をもって秀吉の一城主義のあらわれと見た。これが徹底されず、南部領・伊達領・蒲生領における諸士の在「城」制が維持されたことは、天正19年の再仕置では主要な城々を除いてその他を破却する原則が採用され、一城主義に修正を加えながらも「城わり」はかえって進められた結果と評価した。すなわち天正19年の再仕置きに伴って南部領12城、蒲生領14城が残され、仙台領でもまた岩出山城以下少なくとも14城が残されたとする。そしてそれら城々は少なくとも一部は新たに普請を加えられたものであるという。 ◎田村忠博『宮古地方の中世史 古城物語』昭和61年 南部信直が「七郡の所領を認められたとは云っても、当時が信直が実際支配していたのはその何分の1かにすぎず、七郡の諸城を破壊するなどという力は彼には全くなかった。しかもそれは、天正19年の九戸戦争勝利の後に於いてもほとんど変っていなかった。というのはこの勝利が信直の力でかちとったものではなく、9分9厘強大な仕置軍のバックアップによったものだったからである。戦後信直は福岡・姉帯・一戸・金田一・櫛引など九戸政実に味方して処刑されたり、没落していった土豪達の城を手に入れる事ができたが、まだまだ各地にたくさんの城舘が残り、そこにはその土地生えぬきの土豪たちが力を蓄えていた。」 ◎栗村智弘・佐々木浩一「根城跡一近世家臣団編成と秀吉の諸城破却令」『城破りの考古学』(平成13年) 「天正18年7月に秀吉から所領安堵の朱印状を与えられた頃は、まだ九戸政実の動きが不穏で、自らの持ち城はもちろん、信直を支える諸城の城主、南部政栄や有力家臣の北氏らの城を破却することなど現実にできない状態」であった。したがって根城は「九戸政実の乱が終結する天正19年9月4日まで確実に城として機能していたことは明らか。安堵状に示された悉く破却せよという文字は確かに厳しいものであるがしかしそれはあくまでも、それを支えた時点での秀吉の豊臣政権の原則を示したものであり、一国一城制の秀吉の理想を示したものと解することができる。」 ◎神山仁「元和一国一城令と奥羽地方の城郭一南部領の一国一城体制について」『舘研究』第1号・1998年 「南部信直宛豊臣秀吉朱印覚状では、城郭をどの程度まで破却すべきか触れていない。八戸根城の発掘成果に学ぶと、土塁を崩して堀を埋め、城郭としての機能を弱体化させたうえで居住を続けたと見られるから、家臣団の在地支配まで否定しようとするものではあるまい。この家臣の在地支配容認という体制(いわゆる地方知行制)がやがて江戸時代における南部領の家臣在城体制の根幹となる。」 |