天正18年7月27日「豊臣秀吉朱印状」(『南部家文書』)と奥羽仕置の原則
           覚
 一 南部内七郡事 大膳大夫可任覚悟事
 一 信直妻子 定在京可仕事
 一 知行方令検地 台所入丈夫に召置 在京之賄相続候様に可申付事
 一 家中之者共相抱諸城悉令破却 則妻子三戸江引寄可召置事
 一 右条々及異儀者在之者 今般可被可御成敗候条堅可申付事
          以上
 天正十八年七月廿七日(朱印)
                   南部大膳大夫とのへ

◎以上の秀吉朱印状の内容に求め得る領知安堵と奥羽仕置の原則は、藤木久志「中世奥羽の終末」(『中世奥羽の世界』1998年一平成10年)によると、
一、妻子定在京、つまり大名の妻子は常に在京させること。
二、大名居所の一城を残して家中の諸城すべて破却し、「下々妻子」を大名居城に召置くこと。
三、「知行方検地」を実施し、「台所入」「在京の賄」を確保すること、の三つという。
またその歴史的意義については、何よりも豊臣政権に対する奥羽大名の従属と奉仕、つまりその軍役体系への編成を確定することを目ざしていたとされている。その中の城破規定(城わり)については大名領国の権力分散を否定し、大名居城をこれまでの独立の戦国大名の本拠から、中央の秀吉の代理として地域支配を貫徹させるための豊臣政権の支城へと転換させようとするものであったと評価されている。以上の天正18年の奥羽仕置の原則に対して地域の実情はどれほど整合性を有したか。この点についての検討も本論の課題である。



もどる