註・本史料は岩手県立図書架架蔵の写本に従った。原本の所在、成立時期ともに不明。但し、貞享三丙東閏三月とあるのは、他の関連史料から推して「貞享三丙寅三月」の誤りとみられる。
註1-2、1・2は共に貞享四年の記録とするには疑問がある。藩家老席日録「雑書」は貞享三年分が欠落して同年の状況は確認出来ないが、同四年の三月七日から十六日の間に地震の記録はない。つまり、七日晴天、八日氷雪、九日晴天、十日雨、十一日晴天、十二日晴天・未の刻より雨、十三日霽、十四日晴、十五日晴天、十六日曇、と地震記録は皆無である。ちなみに1-3に関連して、六月には四日「夜中より丙午の下刻地震」が一度散見するのみである。1-4は貞享三年の記録であることから推して、後世、転写に際して日時を誤り伝えたものと見られる。その時期について、、享保十六・十七年の噴火の時、「雑書」三月十八日条に「貞享三年炎焼之節、公義へ被仰上候趣を以此度も御届入候ハゝ、御留守居共申渡承台候様ニと右絵図、前山後山二枚相認先頃、為登候処御留守居共へ申渡候得は、ケ様之類当時御届入不申旨申出候由申来」とある。このことから推して、この節に領内にある旧記を寄せ、誤伝はその原本を累転写に従い生じたものとみたい。

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