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「盛岡五山(盛岡五ヶ寺)」については、一般的に知られるものと認識していましたが、何時の時期に誰によって決められたのか判然としません。文書等の記述についても、ご存知でしたらご教示いただけないでしょうか。 |
文化地層研究会事務局 金野 万里 |
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ご照会の件ですが、確かに五山と言う人は見かけます。しかし、管見した記録はさほど多くありませんが、公の文書の中に「五山」と表記した記録を確認したことはありません。 ちなみに、「テレビ岩手」社が昭和50年に刊行した旧判「いわてのお寺さん ー盛岡とその周辺ー」では、東禅寺・教浄寺の両寺住職は「盛岡五山」、聖寿寺住職は「南部五山」と表記し、永福寺・報恩寺の両寺住職は「盛岡五ヶ寺」と表記しています。 全国的に伝えたのは、吉田東伍の『大日本地名辞書』(明治40年10月 冨山房刊)が、聖寿寺に関連して「杜陵後山の第一位たりしが云々」としたことに由来すると考えます。 本来、五ヶ寺とは、城中席次の中で関連した語彙と考えます。つまり、「御礼申上」の格式を有した社寺(正保年間には17ヶ寺、文政年間には107ヶ寺)の中でも、南部家の祈願寺並びに菩提寺及び菩提寺に準ずる寺院を、寺格最上位の「着座 御列座とも」に据えられ、当初五ヶ寺であった事から、その総称となったものと考えます。以下に経緯の一端を表記します。 もちろん、市川篤焉が編纂した『篤焉家訓』十二之巻(史料3)には下記のように「盛岡五箇寺、是を盛岡五山と唱ふ」という文言がありますが、正式には盛岡五箇寺と呼ぶべきものと考えます。 平成28年1月3日
回答につき改訂を必要とする新た記録を確認しましたので結論を訂正します。 史料 1
『篤焉家訓』十二之巻
寺社御礼順 領内531ヶ寺中107ヶ寺
内寺領を有する寺院 48ヶ寺
一、八百三十三石六斗余 宝珠盛岡山永福寺
一、五百石 内八人扶持 大光山 聖寿寺
一、弐百石 鳩峯山 報恩寺
一、弐百石 大宝山 東禅寺
一、弐百石 擁護山 教浄寺
御列座 鳥目差上 三畳目にて御礼申上
註 以上を総称して五ヶ寺と言います 一、三百石 愛宕山 法輪院
一、百七石一斗余 内現米拾駄 早池峯山 妙泉寺
鳥目差上 三畳目にて御礼申上
以下割愛
史料 2 〔諸寺院御礼着座之次第〕 沢田家文書 岩手県立博物館所蔵
四畳目 永福寺 聖寿寺 教浄寺 報恩寺 東禅寺 右は三畳目御礼着座 〈註 以上を総称して五ヶ寺と言います〉 法輪院 妙泉寺 右は三畳目御礼 法明院 大庄巌寺 長谷寺 高水寺 新山寺 三畳目 光台寺◯ 法泉寺 (以下割愛) 右は二畳目御礼右は二畳目御礼 史料 3 『篤焉家訓』十二之巻 ○盛岡五箇寺 是を盛岡五山と唱ふ 真言宗 盛岡山永福寺 右者御代々之御祈願所なり 禅臨済宗 大光山聖寿寺 右者御代々之御菩提所なり 曹洞宗 鳩峯山報恩寺 右者利直公之御愛子花巻城主彦九郎政直君之牌所なり 禅臨済宗 大宝山東禅寺 右者十三代守行公之牌所なり 時 宗 擁護山教浄寺 右者十代茂時公之御菩提所相州藤沢より移之 右五ヶ寺年序正月六日太守御列座賀儀あり、終て御領中諸寺諸社年礼を勤む、此式法利直公御代より相揃至今爲御祝式 甲州武田信玄五箇寺を建、是は京鎌倉の五山を真似られたり、南部又甲州武田と源流同じ、殊に二十三代安信公、晴政公、皆信玄公と交りを通じて一字を所望せらる(註・この説は「大館常興日記」に照らして誤伝です)依て其頃より五箇寺等の御沙汰ありしと云り 又云、利直公の御代泰平治国に依て右之通盛岡三ヶ所の橋(上中下) 擬宝珠并五箇寺其外迄も悉く御成就也と申傳ふ、尚可考(なお、考えべし 疑問の義)
史料 4 『御家被仰出』元禄十四年三月二十一日条に 覚 一、御家之者共死去之節取仕廻候儀、脇々小寺にて死者抱候て、何角申由粗被及御聞如何鋪被思召候、御家中之者とも、学問仕候様にと被思召候、然処少学問仕候得ば、死去之節取仕廻之儀、一切出家不構様に心得申と相聞候、又は出家は刺刀髪・火葬不仕候はば、取置申間敷と心得候様相聞候、火葬・刺刀髪迷惑之由申者候はば、此段願候通仕、刺刀為戴候迄にて為取仕廻、外之儀は応身帯五龍・四門引導等仕、出家之作法に取仕廻、此以後とやかく出入之儀不申様被成度思召候、依之五ケ寺出家中御頼被思召候旨、御内意被仰出之、右之通御町奉行宅え、五ケ寺呼寄両御町奉行・御目付立合申渡之
史料 5 一、二月廿五日、火葬之儀、五ケ寺之外無用可仕旨徳雲院様御代被仰付置候、然処当二月大慈寺逸堂病死之節、寺内にて火葬被成度之旨光源院様御願被仰上、各別之儀に付御願之通申上、右之趣江戸え申上候処、重ては上々様御願有之候共、五ケ寺之外寺内にて火葬仕候儀、弥無用可仕旨為御意中野吉兵衛より申来、段々御役人え申博候様、御目付え申渡之
史料 6 一、五ケ寺如御旧例、鳥目指上御礼申上、御列座相済、寺社方鳥目指上御礼申上、次諸職人一同ニ於柳之間御礼申上、其次御町之者共右同断鳥目差上之 但、永福寺儀旧冬より病気ニ付、不罷出候故御列座四ケ寺ニて相済
史料 7 一、寛延二己巳年(私大)正月元日(大殿様御在府)信貞公、殿様御同様之御儀式にて巳中刻御城内八幡宮御社参、同下刻御新丸え被為入、御家門御列座相済、御一門、高知初列に応じ諸御役人迄年始御礼被為請、百石以上諸士諸医鳥目指上御礼申上、御流頂戴、未中刻相済、後御同所於御庭御乗初御弓初有之 二日、九十九石以下御礼先例之通被為請 三日、明の方え初御鷹野、御格式にて巳上刻御出有之、申中刻御帰、酉上刻於御新丸御謡初御吉例之通、 六日、五ヶ寺其外共に前例之通御礼、 十一日、御旧例之通、於柳弐間御具足餅被為披
史料 8 一 南部修礼殿 御入部・年始、御本丸於総角之間御列座被仰付旨被仰出、御目付を以申渡之 一 五ケ寺 右同断、寺社御奉行え口達之 以下、割愛します。
■ 五ヶ寺の初見
手許にある記録に限りますが、盛岡城中の年中行事を中心に「五ヶ寺」を検索しますと
史料 9 一、今日巳之剋於御中之丸、如御佳例永福寺・聖寿寺・報恩寺・東禅寺・教浄寺、右五ケ寺御礼相済 御前罷出御引渡、御雑煮・御吸物・御酒出御祝儀終退出(下略)
史料 10 一、如例年今日寺社方諸職人御町ノ者、御目見被為請ニ付テ、大書院へ巳ノ下剋出御、永福寺・聖寿寺・報恩寺・東禅寺、教浄寺、鳥目ニテ御目見、以後右五ケ寺列座御引渡御雑煮・御吸物・御盃被下之、右終テ法輪院・妙泉寺独礼、法妙院ヨリ弐人宛御流・昆布被下之、自光坊ヨリ社人方三人宛別録有り
この二記録(史料9.10)は盛岡藩家老日録『雑書』上での初見かと思います。
但し 註 ここに見える五ヶ寺は、ここで対象としている「五ヶ寺」なのか、八ヶ寺から 『雑書』 明暦二年正月六日条には 一、如例年今日辰刻より寺社方御礼済(永福寺・報恩寺・聖寿寺・教浄寺)、此四人御座敷にて引渡、御雑煮・御吸物、此外三戸御給人拾人余
また、 一、今日年始之御礼、寺社方・御職人并御町之者、於大書院御礼、永福寺・東禅寺・報恩寺・教浄寺、此四人は引渡、御雑煮・御吸物・御盃頂戴之、其外聖寿寺は煩候て代僧故無列座
上記二例(史料12.13)には「五ヶ寺」という表記はありませんが、前記二例(史料9.10)に先行する内容の記録です。明暦年間においても「五ヶ寺」という語彙を使用していた可能性は容易に想像されますが、傍証記録に恵まれていません。従って、現時点では自分なりに延宝六年の記録を初見記録と看做しております。その他、私見はありますが、ここでは触れません。
■ 五ヶ寺の座順
後世の記録では五ヶ寺の座順は「永福寺・聖寿寺・報恩寺・東禅寺・教浄寺」の順位で知られています。 たとえば次の史料13がその例です。 文化五年『年始御礼帳留』 正ノ六日 一、屋形様御中丸へ御出座、御規式元日之通、五ヶ寺 御列座左之通 永福寺 聖寿寺 報恩寺 東禅寺 教浄寺 右御礼座帳一帳 (以下割愛) 註 史料1.2も併せてご覧下さい。 その他記載する記録類は諸書ありますが割愛します。但し、この座順で示す記録は延宝六年迄は遡ることが出来ますが、それ以前は不順(例外として寛文十三年の記録にはこの座順で見えます)ということです。 一、今日年始之御礼、寺社方、御職人并御町之者、於大書院御礼、永福寺、東禅寺、報恩寺、教浄寺、此四ヶ寺は御引渡、御〈雑脱〉煮、御吸物、御盃頂戴之、其外聖寿寺は煩候て代僧故無烈座
六日(正月) 一、御中丸上段之間へ出御、御規式之次第、元日之通、五ヶ寺御列座左之通 永福寺 権僧正 聖寿寺 教浄寺 報恩寺 東禅寺 本誓寺 願教寺 但し前々より教浄寺は東禅寺次座に有之所、天保九年思召有之、報恩寺上坐被仰付ニ付右之通之事 右三畳目ニ而鳥目差上御礼申上、御盃御直昆布戴、御列座に着、御引渡相済退下す、何れも元日御列座之通(以下割愛)
明治元年正月六日 『覚書』 一、為年頭之御祝儀、今日寺社方登城、五ヶ寺、法輪院、妙泉寺、自光坊、光台寺、席へ罷出申上之、尤、月番計〈ばかり〉上下着用、相調、但、法輪院、妙泉寺、光台寺、病気に付登城無之 盛岡五ヶ寺は寺の数ではなく、盛岡藩にて寺格最高位の寺院に対する尊称であり、最近世間で「盛岡五山」という言い回しは、根本的に謝った言い回しであると思います。歴史は大事にしたいものです。
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271209 工藤利悦 |