南部晴政について、晴字は室町将軍足利義晴の偏諱拝領説と武田信玄晴信から受けたとする説があるようです。どのようなものか教えて下さい。
菊池 茂






確かに数説あることは知られています。
足利義晴の偏諱拝領説には

「大館常興日記」
 天文八年七月十五日、御使来臨、奥の南部と申輩被尋、南部、もとより承及たる随分の者にて、御字かやうの遠国より申請候段、尤珍重に存候由申上候、南部彦三郎、御礼、御馬など進上候て、一段の輩と見候



『藩翰譜』所載南部系図
 晴政 彦三郎 右馬助、天文八年七月、受万松院将軍偏名


これ等は史実に近いものがあると勘考されます。

「南部御系譜」自家蔵本
二十四代 晴政  南部彦三郎
永正五戊辰年継家領自将軍義晴公賜御諱字称晴政。


上記も足利義晴の偏諱拝領説に違いはありませんが、永正五年(1508)とするものは、どちらかと言えば、武田信玄より請けたとする説に多く見かける年代です。説とすれば足利将軍より拝領とする説ですが、両説を足しに二で割った感じかと思います。そもそも、晴政の家督時期が永正五戊辰年と読むにしても、偏諱拝領の年としても、足利義晴は(在職:大永元年〈1522年〉 - 天文15年〈1546年〉)であることから誤謬ということになります。
 

一方、次ぎに示す記録は、甲州武田信玄から贈られたとする説を採る記録です。

「岩手県史」は、永正五年(1508)説の『南部御系譜』(岩手県立図書館本)を評して「『系胤譜考』一条系譜に武田晴信より偏諱拝受の録進がある。(中略)不用意に採録されたのは、かえって其後の系譜を惑わす」といい、「武田信玄は大永三年(1523)の生まれであることを論拠に、全く誤謬としています(第三巻336・7頁)。この論法で言えば、 天文の始め(天文元年は1532年)とする説も同類かと思います。実は「岩手県史」の説に従って『系胤譜考』一条系譜を見ましたが、一条氏が甲州に出向いた記述はなく、もしや『参考諸家系図』の誤りかと思い、同書一条系譜を見ました。しかし、これにも記載されていませんでした。前書きは以上にします。

南部叢書本 「南部根元記」.信直公御家督之由来
安信の嫡子をば南部彦三郎晴政とて、頃は天文の末つかた家臣一条左衛門(寛保本・衛門之進)甲州へ遣し、武田大膳大夫晴信公より晴の字を乞得玉ひ晴政と申ける。


「御当家御記録」
二十四代 晴政公 彦三郎
天文の始、家臣一条左衛門を使として甲州武田信玄晴信の晴の字を請ふ、依之晴政公し奉称



「聞老遺事」
二十四代 晴政公 彦三郎
永正五戊辰年(月不知)一条左衛門を武田晴政に使して親を睦み玉ふ。
或云、晴信の晴の一字を請て、晴政と名乗玉ふと然るや否や不知。考 武田晴信宣、  
葛西晴信となすへき歟。葛西晴信と屡々通信の事あり、尚考へし。

つまり、武田晴政より請けたとする説があるほか、葛西晴信から請けたとする別説があることも伝えています。

問い合わせの事とは全く関係ありませんが、信直の信字についても武田信玄から贈られたとする説があります。

「系胤譜考」一条右馬亮元義譜
天文二十年出生、(中略)暫蒙不来方城代、当信直公従武田晴信、信一字御受用之時、為御使被遣甲州、則信玄公面謁、被対談古今之事、(中略)元和二年八月十四日病死、云々
工藤利悦 220822


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