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先祖は奥州仕置により改易された和賀氏の旧家臣で南部氏に仕えたようです。しかし、南部氏は対立関係にあった和賀氏の旧臣が南部家への出仕が、はたして可能だったのでしょうか。存在したとするならば、関連する記錄など教えて下さい。 |
天野 正寛 |
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南部氏は対立関係とは「和賀一揆」「和賀主馬の一揆」。南部家側の記錄には慶長五年の和賀の陣。翌六年の和賀再陣と呼ばれる事件を称しておられると思います。 ご質問は 1. 和賀氏の旧臣の中に南部家に出仕した家はあるのか。 2. 1が存在するならば、どのような記錄があるのか知りたい。 に2点と判断し回答します。 1. 和賀氏の旧臣の中に南部家に出仕した家はあるのか。 和賀氏の旧臣は南部家に対して謀叛をした人たちではありません。 奥南落穂集や系胤譜考・参考諸家系図により、旧家臣で南部氏に仕えた諸家が沢山知ることが出来ます。 2. 1が存在するならば、どのような記錄があるのか知りたい。 奧南落穂集や系胤譜考・参考諸家系図のほか、自費出版本については全く分かりませんが、和賀地方を取り巻く近隣市町村史などにも記錄が含まれ、公開されているかもしれません。個別にご覧ください 次に奧南落穂集・系胤譜考・参考諸家系図を家系調査に活用しようとする場合の史料的限界をお伝えします。 奧南落穂集は、和賀家分限帳ではないこと。成立は元禄十五六年前後と勘考され、同期以前の出仕者家系を知る上で有効ですが、どの様な立場の人が、どの程度の規模を、どの様な手法で取り纏めたものか、実態は不明であると言えます。従って、南部家に出仕した人についても、浪人した人本人、二代目の人、三代目以降の子孫という場合もあるようですが、どれだけの家が掌握されているか疑問。特に元禄以降に出仕した家は活用範囲は限定されると知るべきです。 系胤譜考については、寛保元年に盛岡藩が諸士に書上を命じて纏めたもので、この時に上呈された系図のみが収録。 従って、 書上以前に盛岡を離れた家、断絶した家、書上後に藩士となった家は 原則として 含まれていません。 参考諸家系図については、系胤譜考を種本とし、その他諸系図を援用し編集した私選系図ですから、基本的には系胤譜考と同様と言えます。 この他、慶安五年に諸士に三代由緒書上を命じて編纂した諸士由緒書上という図書もありましたが、現在散逸し所在は不明となっています。 以下、奧南落穂集が記載する和賀家旧臣諸家の中から参考諸家系図を摺り合わせをし系図化したものを抽出し表記します。 和賀氏族臣 煤孫下野守治義 ─────────────────修理助義甫 仕松斉五十石 太田民部少輔義勝 ───────────────┬久義 太田縫殿助 仕利直公改五百石 煤孫分 沢内太田住 仕信直公八百石 ├義房 太田小十郎 父分地三百石 └義弘 猿橋五助 民間に落 三代目被召出 参考諸家系図 縫殿助久義子に作 岩崎弥右衛門義房 ───────────────┬義高 岩崎弥十郎 仕伊達政宗七百石 十二代中務少輔義翁四男 岩崎八郎義縄三代 └義昌 岩崎弥左衛門 仕利直公百石 岩崎城度々一揆頭人 慶長六年落討死 鬼柳伊賀守義邑 ───────────────┬義敦 鬼柳三郎兵衛 十二代中務大輔義翁五男 ├義元 鬼柳蔵人 仕利直公百五十石 鬼柳伊賀守義幹の三代 鬼柳舘 └義景 鬼柳弥吉 仕利直公十五石 鬼柳伊賀守義邑男 参考 参考諸家系図は義敦と義元を同一人として義満に作る 和賀臣下 ┬小田島雅楽助親光 ───────────────親久 仕政直君五十石 │ 刈田平左衛門時盛の後胤 和賀家第一の長臣 参考諸家系図 子孫三系を伝える │ 平沢村住居 ├平澤隠岐親成 浪人 ─────────────勝親 小田嶋右京親寛 浪人 │ 参考諸家系図 親久弟に作り稗貫大和守家臣とす 参考諸家系図 子孫三系を伝える └小田嶋小次郎勝親 浪人 飯豊村住 ──────親治 小田嶋治郎 浪人 矢沢村住 小原玄蕃峯行 ───────────────┬安尹 小原宮内 主馬義忠共走松山殉死 ├某 小原蔵人 落城討死 └峯興 小原五郎左衛門 仕政直君 江釣子周防吉久 ────────────────吉遠 江釣子彦右衛門 高橋民部少輔吉資 子 仕政直公百石 参考諸家系図 子孫七系を伝える 江釣子助五郎 仕松斎百石 一書 勘五郎に作る 参考諸家系図 子孫二系を伝える 藤根五郎坊吉隆 ────────────────吉重 藤根右近 仕利直公百五十石 参考諸家系図 子孫二系を伝える 立花五郎左衛門勝登 ──────────────勝重 立花主膳 仕信直公六石 参考諸家系図 勝重を新左衛門に作り、子孫五系を伝える 晴山蔵人慶知 ──慶素 ────慶如 晴山隼人 仕利直公百石 参考諸家系図 この系を伝えず 鈴木内匠助茂良 気仙人 仕利直公二百石 長沼兵部景長 仕利直公二百石 藤沢左衛門五郎忠清 仕利直公百五十石 轟木紀伊入道月斎 ──────────────┬光尹 轟木兵庫助 └敦久 轟木長左衛門 仕稗貫仕利直七百石 岩田堂隠岐守 ─────────────────某 岩田堂七右衛門 仕利直公七百石 以下 都鳥氏など子孫に至り盛岡藩士となっておりますが 参考諸家系図には子孫系図は収められていません。 斎藤九郎右衛門 一揆頭人 斎藤十蔵 主馬共走殉死 梅沢伊豆守 更木村住 都鳥兵部丞 都鳥藤内 小鳥崎修理 欠上治部少輔利元 近江人 渕柳五郎左衛門 相去清三郎 千刈田刑部允 千刈田半太夫 願念隠岐守 願念讃岐守 仙人別当浄念坊 妙楽院 川原田伊勢守 川原田主計頭 川原田左衛門尉 蒲田宗現 |
工藤利悦 21.12.8. |