滝沢村に越前堰を造ったとされる綾織越前広信を調べたのですが、その中で、気になること、斯波氏家臣に太田民部・・遠野では広武、秀武、と表されており、阿曽沼広長の子とされております。 南部氏関連では斯波氏旧臣、太田民部・・秀氏、広秀とありますが、この太田民部とは和賀氏系なのかそれとも遠野阿曽沼系なのか、もしお分かりでしたらお教え下さい。
菊池克好




滝沢村に開かれた越前堰の開発は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、綾織越前によって開発されたと伝えられております。しかし、説には幾通りの説があるものか知りませんが、『綾織越前之事績』(伊能嘉矩著・大正十年)と「天正年中の越前堰考」(田中喜多美 『岩手史学』第49号)があり、これによって見解は二分されている現状ではないでしょうか。

     綾織越前の出自にいて

 『綾織越前之事績』によれば、綾織越前は岩手郡篠木村綾織(現滝沢村)の郷士とあり、その先祖については触れられず、『南部家記録』を引用とし「寛文十年九月二十五日、越前・右京進・伊兵衛親子三人今日牢舎」としています。ここでいう『南部家記録』とは、家老席日録の『雑書』を指称しているようです。

 一方、「天正年中の越前堰考」は雫石町繋尾入藤平家所蔵の「藤平系図」を引いて阿曽沼氏説を唱え、慶長六年同氏没落の時に藤平に改めたとしています。つまり、遠野領主阿曽沼孫三郎広長(慶長六年没落)の長男権十郎が、遠野綾織を給せられ、在名により綾織氏を名乗り、その子又三郎が綾織越前であり、のち藤平に改めた。広長の弟に主殿助秀広(広武とも)があり、志和の斯波氏に仕え、太田村を領して太田氏を称した。設問にある太田民部はこの子であり、諱を秀武と伝えております。阿曽沼氏の末裔は仙台伊達家に仕えています(『伊達世臣家譜』)が、「藤平系図」によれば、広長の跡は二男広行が相続、綾織久之進を称したと見えます。その子広信も久之進を襲名、この人物は初め斯波氏の一族雫石氏の客分となって雫石に移住。岩手山麓に開堰したと伝え、慶長六年に帰農、慶長十八年死去。享年七十二歳とあります。時に、祖父と伝える広長は、没落した慶長五年(とあります)に何歳であったものか不明ですが、『阿曽沼興廃記』等によれば、妻方の義父(岳父)世田米氏は、なお健在と伝えている中、孫の広信の年齢が五十九歳(逆算)とあることについて、もちろん、否定する論拠は持ち合わせませんが、果たして素直に肯定出来る年齢でしょうか。つまり、『阿曽沼興廃記』等の考証も併せ、この系図の信憑性については、全面的な史料批判が必要と思います。


 改めて設問の趣旨を読み返しましたが、綾織越前と斯波氏旧臣であったとされる太田民部との関係を確認したい。太田民部は阿曽沼氏の一族であることを突きとめたいということなのでしょうか。

「藤平系図」による略系は次の通りです。

阿曽沼広郷┬孫三郎広長┬権十郎某─綾織越前
     │     └綾織久之進広行─藤平久之進広信─┐
     │      ┌───────────────┘ 
     │      └久之丞広景──────────
     ├上野右近広則
     └太田主殿助広武(秀広)─民部秀武──────     



 ちなみに、斯波氏の版図は、基本的には紫波郡内でしょうが、家臣分布からみますと、天正年間、斯波氏滅亡期には、岩手郡内にあっても北上川以西は斯波領であった可能性は高いと考えます。雫石(雫石町)、大釜・鵜飼(いずれも滝沢村)は斯波氏の所領であったことからの推測です。当然、越前堰はこの地域内にありますので、斯波氏との関連で語られることは理解できます。

大変失礼なことですが、逆質問をさせていただきたいと思います。

 斯波氏旧領の中に二ヶ所の太田村が存在していることをご存知だったでしょうか。その一は現矢巾町地内の太田、いま一は盛岡市内、国史蹟指定志和城が存する太田地区がそれです。盛岡市内の太田は、雫石川をはさみ、越前堰がある大釜等と対岸の関係にあります。菊池さんはどちらの太田村を想定しておられるのでしょうか。

 『太田の歴史』(佐藤正雄著)は、斯波氏は一村一地頭制を布いていたことを論拠の一つとして、阿曽沼氏の庶流と伝える太田氏は、矢巾町地内の太田に由来する太田氏であることを主張しています。もちろん、盛岡市内の太田にも太田民部の在住説があることを併せ記述していますが、阿曽沼氏庶流の太田氏とは無縁であるとの見解です。何れにしても、越前堰を考える場合には、仮に綾織越前が太田氏であったとしても、地理的な拘わりから盛岡市内の太田に居住した一族を視野に調査するのが第一歩かと思います。

 あえて太田民部に拘るならば、阿曽沼氏の庶流に太田民部秀武(或いは秀歳)が存在するものの、和賀氏の族臣にも太田民部某があり、和賀郡太田村(現沢内村)の在名により氏とした一族と伝え(『参考諸家系図』)、『奥南落穂集』は、太田民部少輔義勝を伝え、煤孫(和賀氏分族)分れ、沢内太田住としています。一方、斯波氏旧臣太田氏の中に、太田民部との拘わりは不明ながら、民部と同様に和賀郡太田村を本貫の地と伝える一族(『参考諸家系図』)と知られています。もちろん、その一族が、雫石川流域の太田村を領したという確証はありません。この地の在名により氏とした、第四の太田氏の存在も想定出来るのではないでしょうか。

 明治二年の支配帳によれば、盛岡藩士のなかにあって、太田氏を名乗る家は三十二家あります。突き詰めてみますと、本姓を畠山氏とする家あり、北江口、川村、佐々木氏など多彩です。非礼ながら、「必ずしも阿曽沼氏、和賀氏に特定されたものではない」、とする視点で思考することも必要かと思います。

 総じて言えることは、往々にして、自分の手のひらにある材料のみで結論を導こうとしますが、実は手のひらの外に真実が存在することのほか、伝承されている事柄の中には、故意・操作の場合を含めて、様々な要因によって誤伝である例の如何に多いことか、ご案内の通りです。

 斯波氏家臣の太田氏は阿曽沼氏の庶流か、和賀氏の庶流かと、二者択一を迫る考え方には疑問を覚えます。私には、数少ない記録、しかも、いずれも近世以降に綴られた記録によって結論付け、回答するだけの勇気はありません。解明できるならばそれに越したことはありませんが、生半可な材料で氏族を特定づけ、結論を導き出すよりかは、先祖を知らないとする『綾織越前之事績』の説の方が、よほど説得力があるように思えてなりません。

 いずれにしても、綾織越前の開堰は立派な事業であり、菊池さんによって、しっかりと顕彰されることを期待しやみません。

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