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このたび、菊池克好さんから、『信長公記』に散見する南部政直に関連して見える万見仙千代の討死は、天正六年十二月九日であるとの連絡を頂きました。今一度、菊池さんの「信直は政直と異名同人か」の問いに対し自問自答してみたいと思います。 平成22年7月7日追記 南部宮内少輔は諱を季賢と云い、秋田安東家の郎従と突き止めました。 資料は最末尾に掲載しております。 工藤利悦 |
自問自答 |
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改めて菊池さんから頂いた、万見仙千代の討死に関する『信長公記』からの引用文は以下の通りです。 『信長公記』によれば、 「十二月八日申刻より、諸卒伊丹へ取寄り、堀久太郎・万見仙千代・菅屋九右衞門両三人御奉行として鉄砲放を召列れ、町口へ押詰め」云々とあり、「酉刻より亥剋迄近々と取寄り攻められ、壁際にて相支へ、万見仙千代討死候」とあります。その脚注には、万見の戦死は「多門院日記十二月九日条討死」とあり、いず れにしても(工藤註 万見仙千代討死は)十二月のことです。 前回、南部政直長に関する史料性について、万見仙千代討死の視点から危惧することを申し上げましたが、納得させて頂きました。新しい史料の存在が確認出来、感謝いたしております。しかし、更なる道は険しく、定説は聊かの変化も生じないというのが残念です。 これも何度となく言い尽くしたものですか、南部家は天文年間の三戸城焼亡を楯に、信直を取り巻く文書類を含めて、意図的とさえ疑いたくなるほど、中世に拘わる史料を消滅させています。信直の伝記を纏めた『南部根元記』には数系統の伝本があり、その一系統には、三戸城焼亡を否定するものさえ存在する始末です。 私たちが描いている中世史像は、多分に虚構の像であることは想定されても実像の掴みようがない。そのような中に南部政直という人物が顕在化したという事実は、記念すべきものと思います。知られざる歴史の掘り起こし、それは史料の掘り起こしに尽きると思います。頑張りたいものです。 今一度、菊池さんの「信直は政直と異名同人か」の問いを考えてみたいと思います。 一方、QあんどAに、女鹿誠夫さんから女鹿系図を引いて「南部政直は利直ではないか」との見解も頂きました。私見では否定的な見解を示し、石川高信・政信父子の線を示唆した意見を回答しました。(「QあんどAで菊池克好氏の南部政直に関連して云々」を参照)両方を重ねて考察したいと思います。 現在の私たちの通説は『南部史要』の説に拠って構成されているとに鑑み、『南部史要』が論拠としている出典は何かを調べますと、何れも近世に入ってからの編纂物、特に『祐清私記』が中心に据えられていること。原史料は殆ど確認出来ないことが、うなずけます。更に深読みする中で次の事件に遭遇します。 第二十四世晴政公 天正六年七月、公使を京都に遣し駿馬逸鷹を織田信長に献 ず、信長大に喜び使者に饗膳を賜ふ 『南部史要』 註 『信直公記』は 天正六年八月五日 奥州津軽の南部宮内少輔(南部政 直)御鷹五疋進上 とある由 六月と八月の違いはありますが、南部家側の史書では確認できません。『南部史要』の著者は『信長公記』を目にし、南部政直を南部晴政に置き換えものと推察されます。 『信直公記』を確認しましたが、南部政直の氏名は ないので誰かの補注と思います 16.12.1 工藤 16.12.1. 菊池さんからの質問によれば、南部宮内少輔は南部政直。政直は誰かとのことでしたので私見を列べました。しかし、『信長公記』には南部政直の名前は記録されていないことが判明しました。従って南部宮内少輔は誰かという問題であり、拙い私見は無意味でありますので[ ]の部分は本日をもって.削除します。 [ ] 16.12.24.削除しました 改めて、南部宮内少輔は誰かという問題ですが、よく分かりません。行きがかり上、二三の参考史料を掲載ます。 1. 永正五年将軍足利義晴より一字拝領して晴政(前名不明)に 改めたとする説 私蔵本『南部系図』外 2. 天文中甲斐國に使者を遣わして武田晴信より一字を贈られ、 安政を晴政に改めたとする説 『国統大年譜』 ただし『聞老遺事』は、この説を否定し、葛西晴政であろうと 考証しています。 3. 『後鑑』天文八年七月十五日庚戌奥州南部彦三郎申諸御字 大館日記云、摂州より常興と豆州両人へ折紙 奥州南部彦三 郎御礼申上、御字之事申候、無別儀被思食、乍去存分可申上候 由被仰出之云々、尤、無別儀御事と存候、もともとより南部事 承候、御馬なと進上候て、一段の輩と見ゑいかにも可然奉存候 旨書付て言上仕候也 『大館常興日記』天文八年七月十五日条には「御使来臨 奥の 南部と申輩被尋、南部もとより承及たる随分の者にて御字かや うの遠国より申請候段 尤珍重に存候由申上候」とあり、これ を受けて『藩翰譜』は「晴政 彦三郎 右馬助 天文八年七月 受万松院将軍偏名」とし、『大日本地名辞書』はこの説をとっ て「天文八年の彦三郎は晴政なり、幕府の晴字を賜りしや明亮 とす」としています。 4. 年代不詳ですが、遠野南部家文書の中に晴政署名書状が二点 現存していることによります。 晴政は世子信直との間に確執が深め、信直を庇護しようとす る浅水城主南長義(信直の叔父)及びその女婿である剣吉城 主北信愛の間で合戦に及んだ際に、八戸根城城主八戸政義宛 に晴政が出陣要請をした際の書状がそれです。それぞれ、何 れの書状も「晴政」と署名しており、晴政を名乗った時期が あったことは紛れもない史実です。 南部史要の出拠を探す 天文 8 1539 三戸城焼亡 『寛永諸家系図傳』 三戸城焼亡は史実としても、中世以来 以来の記録文書類を焼亡したとする説 には、限りなく不自然さが顕在する 7月15日 御使来臨 奥の南部と申輩被尋、南部 もとより承及たる随分の者にて御字かやうの 遠国より申請候段 尤珍重に存候由申上候 『大館常興日記』 晴政 彦三郎 右馬助 天文八年七月受万松 院将軍偏名 ※万松院は12代将軍足利義晴 『藩翰譜』 天文八年の彦三郎は晴政なり、幕府の晴字を 賜りしや明亮とす 『大日本地名辞書』 天文15 1546 信直岩手郡一方井村にて南部左衛門尉高信の長 子として生れる。幼名亀九郎。母は一方井刑部 安正の娘 ※寛永系図伝は信直の父高信を南部家二十三代 右馬頭安信次男とす ※祐清私記は南部二十二代右馬亮政康次男とす 【南部史要は『祐清私記』説を採用】 弘治年中 1555?57 この歳 十二・三歳の時三戸田子城に移り 田子九郎と称する『祐清私記』 【南部史要この説を採用】 永禄 6 1563 この歳の「室町幕府諸役人附」に関東衆として 南部大膳亮・奥州、九戸五郎・奥州二階堂が散 見『群書類従』 ※ 問題提起 遠野南部家の文書によれば、南 北朝期に二階堂氏領が久慈地方に散見する。 九戸氏はその末裔か。 この歳 南部晴政死去『寛政重修諸家譜』 『篤焉家訓』『聞老遺事』 8 1565 この歳 鹿角にて安東氏と合戦、長牛弥九郎・ 一戸弥兵衛ら防戦に勤めたが敗退、三戸に逃れ る。鹿角は安東領となる 『奥南落穂集』 この歳 南部晴継家督、次いで死去 『寛政重修諸家譜』『篤焉家訓』 ※『聞老遺事は』永禄9年7月とす ※『国統大年譜』は天正10年とす 南部晴継誕生 出典不明【南部史要この説を採用】 9 1566 信直生母一方井氏死去 名久井法光寺に葬る 芝山芳公大禅定尼 『参考諸家系図』一方井系図 11 1568 信直世子として鹿角に出陣、秋田の安東氏と合 戦す『参考諸家系図』長牛系図 ※『聞老遺事』『南部世譜附録』は永禄12年と す 元亀 2 1571 晴政嫡子晴継生れる ※『国統大年譜』天文22年誕生とす ※『国統大年譜』記載の没年から逆算すれば、 この年は誕生前16年に当る この歳 九戸政実、大将となり葛西氏属将小野 寺前司宗道を和賀河崎に攻略す 『岩手県史』・小野寺系図 大浦為信、津軽石川城主石川大膳を討ち取り、 津軽に旗を挙げる『永禄日記』 ※『永禄日記』は津軽山崎家文書 石川大膳殿は高信のこと ※『津軽封内城趾考』は石川城趾の項で高信は 天文9年病死 大膳殿を高信の子政信のこと、為信津軽回 復の戦のため血祭りに上げられ自尽として いる ※『聞老遺事』は天正16年とす 元亀 3 1572 九戸政実謀叛の流言あり、政実実母を人実に出 す『祐清私記』【南部史要この説を採用】 この歳 晴継死去、信直家督を継ぐ 『篤焉家訓』(異説) この歳 九戸政実、八戸政義に対し反信直派に 味方工作をす、八戸政義叔父守順を毒殺す 『八戸家伝記』 この歳 平舘城主平舘政包、信直を支持する兄 一戸政連父子を一戸城に襲殺す『奥南旧指録』 ※無年号書状 晴政と信直を庇護する浅水城主南長義(信直の叔父)及 びその女婿である剣吉城主北信愛の間で合戦ヵ、 九戸政実謀叛の流言説は、後世にいたってこの事件を脚 色し置き換えられた可能性はないか 『八戸家伝記』 伝存「南部晴政書状」 天正元年 1573 この歳 晴政次女 九戸彦九郎実親に嫁す 『祐清私記』 3 1572 この歳 信直の父高信津軽を切取彼地え移る、 依って信直の弟政信は父の高信の名跡となり津 軽に赴く。信直は晴政の名跡の心故三戸にあり 『祐清私記』 この歳 世子信直、宿願あって川守田毘沙門堂 に参詣す。この時晴政の襲撃を受け川守田館に 避難する 『八戸家伝記』 ※南部根元記、北家系図、川守田家書上は天正 十年晴継葬礼の時に作る ※『三翁昔語』は信直・晴政の確執を伝える。 この時 八戸政栄、信直を八戸根城に匿う 『八戸家伝記』 4 1574 長男彦九郎晴直生れる のち利直と改名 母は 南部氏 生母泉山村の地人出雲の娘 『祐清私記』 【南部史要この説を採用】 この歳 信直夫人南部氏死去 世子を辞して田 子に帰る『国統大年譜』 【南部史要この説を採用】 6 1578 晴政 織田信直へ駿馬逸鷹を献上す 【南部史要この説を採用】 ※出典は『信長公記』か 9 1581 信直の父石川左衛門尉高信津軽にて病死す 七十六歳 『奥南落穂集』 【南部史要この説を採用】 『津軽一統志』は高信の死を元亀二年とす。津軽為信と 秋田安東氏が天正九年に津軽石川で合戦に及んでおり、 高信が顕在であるならばあり得ない事件と云わざるを 得ない。高信の死は『津軽一統志』の説の方に歩がある のではなかろうか。 10 1581 正月四日 二十四代晴政死去 『祐清私記』 【南部史要この説を採用】 ※『寛政重修諸家譜』は永禄6年3月16日に 作る 正月二十日 二十五代晴継死去 十三歳 『公国史列伝』 【南部史要この説を採用】 ※『聞老遺事』は永禄6年説と元亀3年説を掲 げる ※『寛政重修諸家譜』は永禄8年1562とす ※信直、晴継葬儀の帰路 九戸政実、久慈備前 等襲撃される 『祐清私記』 【南部史要この説を採用】 二月十五日 宗家三戸南部氏の後継者決定をめ ぐり一族重臣、三戸城に会議す 『天正南部軍記』 この歳 信直 晴継の跡を継ぐ 『祐清私記』 『東奥軍記』『参考諸家系図』北系図・ 久慈系図・下斗米系図 ※ 寛政重修諸家譜は永禄8年1565とす ※ 御当家御記録は天正6年1578正月四日とす ※年次記載なし 彦三郎晴継早世ゆへ従弟たり といへともその家をつぐ 『寛永系図伝』 ※この歳 本家彦三郎晴継早世故、又従弟たり といへとも信直家を継けり 『祐清私記』 ※ 会議の大勢は家中一の大身・九戸政実或は その弟で晴政次女の聟である九戸実親に傾き かけていたと伝えているにも拘わらず、晴継 が誕生以来、一貫して晴政と不和対立してい た信直が家督を相続するに至った背景が尾を 引き九戸一揆に発展した 『祐清私記』 この歳 織田信長に誼を結ぶため京に向け北左 衛門信愛を使者に立てる 『祐清私記』 【南部史要この説を採用】 前田利家より誓書来る 『聞老遺事』 14 1586 九戸政実、上洛の風説あり 『祐清私記』 15 1587 信直、豊臣秀吉へ駿馬外を献上 『祐清私記』『篤焉家訓』 【南部史要この説を採用】 次の略系図は、これまでに出現した人物を系図化して一覧表としたものです。 政康─安信┬晴政─晴継 ├石川高信─信直─利直 ├南長義 『寛永諸家系図傳』『南部信直絵像』『内史略』 『寛政重修諸家譜』『篤焉家訓』等 平成19年3月21日追記 信長公記に見える南部宮内少輔は、「南部史要」では南部晴政とあり、「南部耆旧傳」では南部信直として見えます。 晴政の治世の期間が諸説有り、天正六年に未だ晴政健在とする説を採った「南部史要」は晴政ととらえ、既に信直の時代とする説を採った「南部耆旧傳」は信直のこととしたまでのことでは有りますが。 「南部史要」晴政譜 天正六年七月公、使を京都に遣し、駿馬逸鷹を織田信長に献ず。信長大に喜び使者に饗膳を賜ふ 「南部耆旧傳」本文末尾に付箋にて 織田軍記 一、天正六年戊寅八月五日、信長公安土御在城、時大膳大夫(本書宮内少輔)信直、御鷹献上、同日被召寄南部使者於万見仙千代宅賜饗応云々 やっと辿り着いた南部宮内少輔の居所 平成22年7月7日追記 昨年の夏頃か、知友である「青森県史」の熊谷隆次さんから、「青森県史」では「信長公記」の南部宮内少輔は、秋田安東家の郎従であるとしています。と聞かされ半信半疑で時を過ごしておりました。最近、とある事を確認したく、同県史を繙いて見ました処、将に偶然でしたが、夢にまで見ていた南部宮内少輔に会うことが出来ました。 「青森県史」資料編 中世2 安藤(安東)・秋田氏関係資料 下国伊駒安陪姓家之記錄 愛季の譜 p290 に散見する次の記錄です。 これまで記述してきた前文を抹消しようかと思いましたが、拙い文章であっても轍ですから紀念に残存することとしました。 織田ノ右大臣平ノ信長公在ス江州安土ニ時、被申通使者(ハ)愛季之郎従南部宮内少輔季賢也、依テ為ル熊野山参詣下向之幸便タル従リ信長公之御内書云、雖未申通候、以テ事之次ヲ令啓候、仍テ為鷹所望、鷹師両人差下候、往還諸役所路次番并餌之事、無異儀被仰付候者、可歓悦夕ル候、珍キ鷹・同易(カハリ)物出来候者(ハ)、御馳走所仰候、上口御相応之儀承リ候者(ハ)、珍重候、猶ヲ南部宮内少輔可申候、恐々謹言、 二月廿日 信長朱印 謹上下国殿 |
工藤利悦 160104 |