津軽為信は藤原氏と言われていますが、南部氏の支族とする説もあると聞きました。具体的にはどの様な説なのでしょうか。
鈴木文夫




初めに藤原姓の系図を掲げ、次いで回答の方に入りたいと思います。

 定説 藤原姓津軽家系譜

 寛永十八年幕府は『寛永諸家系図傳』の編纂に際し、津軽家からの呈譜に政信は「近衛後法成寺尚通か猶子云々」としたことに林羅山は疑問を持ち、津軽家に問い合わせをしています。その後の経過は割愛しますが、後世に至って、幕府は再び系譜編纂事業を起こし成ったのが『寛政重修諸家譜』です。

『寛政重修諸家譜』巻725によれば、
 関白近衛家の支流とし、次のように記録しています。

藤原氏 頼通流
  津軽
 寛永系図、家傳を引て政信か実父詳ならず。近衛後法成寺尚通か猶子となるにより、藤原氏と称すといひて、支流に入。今の呈譜にはじめ大浦を稲し、為信がときより津軽にあらたむといふ、官本系図を接ずるに、尚通は近衛諸流の祖関白師通より十七代の孫なり、よりて当流におさむ

●政信  右京亮 信濃守───────────────┐
   陸奥国津軽の赤石城に住し、天文十年五月九日(今 │
   の呈譜六月九日)死す、法名善暘、(今の呈譜先公)│
   津軽の天津院に葬る               │
 ┌─────────────────────────┘
●└守信 甚三郎、紀伊守───────────────┐
    永禄十一年(今の呈譜十年)十月九日死す、法名 │
    寿宗、津軽の耕春院に葬る           │
 ┌─────────────────────────┘
●├為信 童名扇、右京、右京大夫、母は某氏  ────┐
 │  天文十九年赤石城に生る、天正十八年織田原の役 │
 │  にすみやかにはせのぼりて、豊臣太閤に見参せし │
 │  かば、津軽の本領を安堵すべきの朱印をあたへら │
 │  る、慶長五年正月二十七日右京大夫に任じ、のち │
 │  東照宮の御麾下に属し、本領を賜ひ、其後上野國 │
 │  勢多郡のうちにをいて二千石を加へられ、すべて │
 │  四万七千石を領す、十二年十二月五日京師にをい │
 │  て卒す、年五十八、梁宅(今の呈譜天室)源棟瑞 │
 │  祥院と号す。津軽の革秀寺に葬る        │
 ├女子 母は某氏                  │
 └信勝 母は某氏                  │
 ┌─────────────────────────┘
 ├信建 宮内少輔 母は某氏 
 ├信堅 母は某氏
 ├女子 母は某氏
●└信枚 ──────────────────────┐
     譜略 下略

それでは、史実はどうでしょうか。

 次ぎに『津軽家文書抄』より、津軽為信と異名同人である南部右京亮宛書状を引用し紹介します。

  傳存する書状によれば、天正十七年十二月四日豊臣秀吉朱印
  状を上限とし、下限は天正十八年卯月(四月)十一日豊臣秀
  次判物。その後同年六月廿日豊臣秀吉朱印状には津軽右京亮
  と見えます。それは、在地では大浦を名乗っていたと伝えら
  れていた時期と重なり、血族の有無もさることながら、少な
  くとも中央工作に際して南部氏を称していたことは、紛れも
  なく豊臣氏・織田氏など一連の返書によって窺い知ることが
  出来ます。更に云えば、天正十八年六月廿日附津軽右京亮宛
  豊臣秀吉状は、まさに津軽為信を津軽郡の領主として発給し
  たものと考えます。その後、南部宛返書が見えないことは、
  為信自身が南部を名乗る書状を発信しなかったことの裏返し
  であり、『津軽家文書抄』解説(3-1-1の解説)の言を借り
  るならば、「為信がいよいよ津軽の独立大名としての地位を
  堅固なものにした」ことの具現化であると思います。

2-1 南部右京亮宛           豊臣秀吉朱印状 

 為音信黄鷹一居、蒼鷹兄一居到来、悦思召候、於路次損候者
 併志同前候、重而遠路候間、鷹数無用候、猶増田右衛門尉、
 木村弥一右衛門尉可申候也

    十二月廿四日(天正十七年) (朱印)
                   南部右京亮とのへ
     註 南部右京亮は津軽為信同人
  参考
  津軽為信は南部右京亮を名乗っていたと想定されている時期
  に、津軽左京亮宛豊臣秀吉朱印状一通があります。

2-1-1 津軽左京亮宛         豊臣秀吉朱印状 

   弟鷹二居到来之、遠路切々懇志感悦候、其元堺目等堅固申 
   付由尤候、猶増田右衛門尉、木村弥一右衛門尉可申候也
    正月十六日(天正十八年) (花押)
                   津軽左京亮との

2-1-1に関連して『津軽家文書抄』は興味ある見解を示しています。

(解説)本文書は二点について重要な意味を持つ文書である。
 その一は、宛名が南部右京亮ではなく、津軽左京亮となってい
 る点である。その二は、文中に「其元堺目等堅固申付」とわざ
 わざ記していることである。
 その一について言えば、この時点で、為信が津軽氏を名乗って
 いる史料は他にはない。為信の申告、要請に基づき、為信の希
 望するところをそのまゝ記入したものであろうか。仮にそうだ
 とすれば、秀吉判物ともあろうものが、このようにずさんなも
 のであったのかと、あきれざるを得ない。また、このような宛
 名になった、ということは、為信がいよいよ津軽の独立大名と
 しての地位に近付いてきたことを示すとも見られよう。このこ
 とは、その二、境目堅固申付の文言によってもうかがわれる。

 今後の課題ですが、九戸政実は果たして三戸南部家の家臣であったろうかと考えた時(註1)に、「為信の希望するところをそのまゝ記入したものであろうか」とする仮説は、そのまま信直への対応にも当てはまることであり、秀吉にすれば、為信であれ、信直であれ、豊臣政権の大名であると認知した者の言い分は聞く。他の言い分は切り捨てたと考えるならば同根であり、呆れるには及ばないと考えます。

    註1 今後関連史料を「こもんじょ館」「南部を名乗る諸
      家18 家臣諸家8 中野家3に収録する予定です。関
      連として「とぴっくす館」平成15年6月30日の九戸
      政実は独立大名「南部氏に反乱は脚色」に概要を掲
      載しています。

2-2 南部右京亮宛          織田信雄判物

 去歳十月之御芳翰今春到着、委曲披閲本懐候、殊黄鷹一居贈給
 誠遠路御懇慮難伸書紙候、当年茂鷹取可差下候之間、於馳走は
 可為快然候、仍豹皮弐枚進覧之候、猶高田伝助かたより可申越
 之条不能詳候、恐々謹言
    正月廿八日(天正十八年)  信雄(花押)
            南部右京亮殿

2-3 南部右京亮宛          豊臣秀次判物

 角鷹一居被贈越候、寔遠路懇情欣悦候、即可令自愛候、向後上
 辺用事可被申越候、尚徳永石見守可申候、恐々謹言
    卯月十一日(天正十八年)  秀次(花押)
       南部右京亮殿

2-4 津軽右京亮宛          豊臣秀吉朱印状

   奥州奥郡為御仕置、江戸大納言、尾張中納言越後宰相、其
   外被遣御人数候、然は南部家中企逆意族可加成敗候旨被仰
   出候条、大谷刑部少輔申次第其方事可相動候也
     六月廿日 (天正十八年)(朱印)
                  津軽右京亮とのへ


  
 以上の書状が現存している史実からすれば、津軽家が南部家の庶流とする説は、あながち虚構ではないということが出来そうです。しからば、南部氏の庶流であるとしてどの様な形で南部氏と繋がるのかが問題です。
 津軽家が南部家の庶流とする説は意外に津軽側に多い反面、南部側には殆ど見えません。

3-1  久慈紀伊信長の男久慈弥四郎為信とする説
                   南部側の記録です
   津軽右京大夫為信ノ事

南部三郎光行公六男七戸太郎三郎朝実の支流久慈備前治義三男久慈信濃為治子紀伊信長の男にして始は久慈弥四郎為信といふ、晴政公に仕へ侫奸利口、津軽に出張して大浦に住居し大浦右京と改(下略)                  『奥南落穂集』

3-2  久慈備前守治義の男久慈平蔵為信とする説
                   南部側の記録です
 公族之八
〔断絶〕
七戸氏 本名南部
光行公六男 紋
 朝清君                 七戸太郎三郎─┐
    母家女                     │       
    甲斐に生る、建久二年公に従て糠部郡に至る、北郡 │
    七戸の郷に封せらる、以て家号とす        │
┌───────────────────────────┘
├光興 或義清 或七戸孫三郎       久慈太郎───┐
│   九戸郡久慈村を玉ふて移て之に居る        │    
│   摂待氏系云  加賀美次郎遠光公四男       │
│                           │
│   光清             小笠原四郎───┐│
│    文治五年七月頼朝公陸奥征伐の時兄光行公に従て││
│    軍功を抽す、後建久二年又従て甲斐より到り九戸││
│    郡久慈村を玉ふ               ││
│   ┌──────────────────────┘│
│   └義清            七戸孫三郎    │
│   実、七戸太郎三郎朝清君長男           │
│   光清の養子となりて其後を継く、是より数代詳なら │
│   す 而て久慈修理助に至る            │
│   以下同                     │
├光継  七戸三郎     別系(七戸・横浜・新田祖) │
└光治  久慈五郎     別系(横浜祖)       │
┌───────────────────────────┘
└継治                  久慈尾張───┐
┌───────────────────────────┘
├治長                  久慈大炊───┐
└治廣  久慈下野     別系            │
┌───────────────────────────┘
└此間八九代詳ならす──────────────────┐
┌───────────────────────────┘
└某                   久慈修理助──┐
┌───────────────────────────┘
├信実君 与三郎、摂待摂津守       久慈備前守──┐
│  実、助政公二男、                 │
│  家督の後久慈大川目に館を築て之に居、之を八日館と │
│  云 久慈村に卒す、簗里英公大禅定門        │
└女  養公子信実君室                 │
┌───────────────────────────┘
└信政 与三郎              久慈摂津守──┐
    母祖父修理助女                 │
    閑翁月公大禅定門                │
    妻  八戸河内守内新田刑部允清政女       │
┌───────────────────────────┘
├政継                  久慈備前───┐
│   母新田氏、下同、                │
│   家督の後、命に依て出羽平賀郡大曲郡代堺合戦の時 │
│   討死す、長久寺殿玉林全公大禅定門        │
└信継  孫三郎 下総守 久慈摂津守          │
    兄政継戦死の時、其子与三郎治継幼少に依て暫其遺 │
    跡を相続す、治継成長の後之を退く、月斧心公   │
┌───────────────────────────┘
└治継 与三郎 右衛助          久慈摂津守──┐
    母遊女薄衣                   │
    出羽大曲に於て生、父戦死の時幼少也、久慈村の修 │
    験南光坊並僕戸鎖と云者治継を携て久慈村に逃帰る │
    叔父信継に養ハれて成長す、晩年双親の為に一寺を │
    建銀春山長久寺と云、久慈村に死、虎山源石禅定門 │
    長久寺                     │
┌───────────────────────────┘
└治義  左馬助             久慈備前守──┐
    母八戸氏                    │
    家督、叔厳進公禅定門              │
┌───────────────────────────┘
├信義  与三郎 左馬助         久慈参河守──┐
│   母久慈氏                    │ 
│   家督生来身幹五尺過すといへとも文武の達人と称し │
│   安信公の時先鋒となりて三閉伊逆徒を征して功あり │
│   依て諱字を玉ふ、死年三十、常性見公禅定門    │
│   妻   九戸筑後守康連女            │
├為信  十郎 久慈平蔵、後大浦右京          │
│   母家女、下同                  │
│   実母の為に兄と不和にして兄家督の後久慈村を出奔 │
│   して津軽に至り、大浦氏の養となる、天正十八年津 │
│   軽を押領す、今の津軽越中守の祖也        │
└某   久慈五郎                   │
    兄為信と倶に津軽に出奔す            │
┌───────────────────────────┘
├直治 始時治 左馬助          久慈備前守──┐
│   母九戸氏、下同                 │   
│   家督の後天正十五年久慈村長久寺に時太鼓を寄進す │
│   今の聖寿寺の物是也、同十九年九戸政実の逆に党し │
│   て九戸城に篭る、同九月七日力尽て政実と倶に浅野 │
│   の陣に降る、仙台三迫に於て誅せらる、同処大島町 │
│   に墓あり、洞岳仙公               │
├治光  久慈出羽   別系(久慈・摂待・角澤祖)   │
├女   東孫六妻                   │
├女   中館宮内妻                  │
└女   出町将監妻                  │
┌───────────────────────────┘
├政則 始政親 左衛門          久慈中務───┐
│   実、九戸右京助信仲三男             │    
│   部屋住にて天正十九年父直治と倶に九戸城に篭る  │
│   後三迫に誅せらる、大島町に墓あり、明厳聴心と云 │
│   断絶                      │
├女   養子政則妻                  │
└女   野田覚蔵親正妻                │
┌───────────────────────────┘
├女   大光寺左衛門正親妻 母祖父直治女、下同 
└女   寿光禅尼
    正保慶安中猶存生也、生来語学を好み常に久慈氏祖
    先の系図を説、其末孫久慈忠兵衛一治壮歳此尼に謁
    して親く其説を聞、久慈氏の系図専ら此に出ると云
    此尼一生月水を見す、世人異婦と称す、老年にて死 
                  『参考諸家系図』巻八


4  津軽側の記録

4-1  南部屋形様御三男金沢氏とする説  
                
津軽屋形様御先祖次第
御初代
金沢右京亮様
 南部屋形様御三男也、仙北にて御他界也、御暇名彦六郎様と申
 す也、津軽屋形様の御先祖初也、此殴を京兆と申也、南部様に
 ては下久慈と申所に被成御座也

第二代
南部右京亮様
 此殿を金沢若君と申也、京兆様御子也、大曲和泉守御守仕南部
 へ参と也、南部にては亦御父京兆様の御本地下久慈にて御座な
 され、御受領信濃守と申奉り、則久慈にて他界也、右の和泉守
 は当時萬屋豊前守先祖也

(第三代)
同京兆亮様 源光信公 御戒名 長勝
 此殿津軽鼻和郡御知行被成、大浦へ御入部始也、御先には御舎
 弟壱岐守殿御出あり、境目を御尋改被成と云、亦在郷に國久き
 浪人侍あるを呼出し、境目御尋被成由也、右之壱岐守殿は近代
 町田兵部先祖の人なり、右之浪人侍は八木橋備中先祖の者と
 云、
 扨亦御入部の御供には大曲甚四郎、近代高屋豊前先祖也、小山
 内、近代弥四郎御先祖也、扨亦光信様於種里御他界為御遺言鎧
 の侭にて土葬に可築込置也、我骨のある間全下国の馬入間しき
 との御遺言にて至、当代種里に御脳か墓とて在之、亦惣て大浦
 山海蔵寺とて先祖の寺なれとも、長勝様御遺言にて為御菩提今
 の太平山長勝寺御開山也、但此殿様も信州と申奉る也

第四代
同右京亮様、源盛信公 領山全統
 光信様之御子也、同御舎弟伊豆守、戒名 金叟と云也.是兼平
 中書の先祖始也。亦藤崎五郎、六郎殿云は末は領山様の御孫也
 大光守左衞門佐殿先祖始也。後盛信とも信濃守とも申奉る也

第五代           
同右京亮様、源政信公 御戒名天津先公
 盛信様の御子也、此殿も後は信濃守と申奉る也
 政信様の御舎弟盛岡源三郎殿、戒名逸峯源俊と云、近代采女正
 先祖也

第六代
同右京亮様、源為則公 松岳源清
 政信様之御子也、後は信州と申奉此殿を三月の殿様と申奉る也
 御子御姫様御両人也、然間御舎弟堀越被成御座、紀伊守守信公
 之御子為信様を大浦へ呼申被成、御姉様と被御結縁為信様御名
 跡を被為継也、御姉様と申奉るは、御戒名仙洞院様の御事也、
 御妹姫は横内霜台の御内儀也、紀伊守守信の御戒名祖峯宗公と
 申奉る也、御為に今の耕春院御開起(開基)也、同守信公の御
 奥様の御戒名は桂屋貞昌と申奉る、御為に今の貞昌寺御開山也
 近代兼平休道の御内儀様は守信公の御娘為信公には御妹也 

第七代
津軽右京太夫様、藤原為信公、御戒名天空梁公
 御年三十八歳、年号は天正十六年、津軽国中不残御伐捕被為成
 御國一和候、殿様是也、其刻の御一門には兼平中書・盛岡金吾
 尾崎殿三人、年老には木桜袋、伊勢守、小山内越前守、長崎甲
 斐守、三人、奉行人大曲が末子高屋右近之丞、中野新之丞、船
 越兵部少輔、八木橋備中守是也、為信様中古迄は何事も南部様
 同前に被遊也、其後は破菱の御紋被為替茗荷の丸を被成、又近
 代牡丹の御紋に被遊也、御氏も御改藤原氏に被成也、為信様の
 御子御男子四人、御女子三人也、同御代津軽惣名赦免は漬かる
 左馬頭、津軽出雲守、扨亦為信様於京都御病死也、御為の御菩
 提寺津軽山革秀寺御開山也
             『津軽一統志』附録(高屋家文書)

 盛岡藩士市川篤焉もこれを見聞し、書き留めています。

4-2  津軽家偽系  
 津軽三郡横領の事并ぎょうやう牡丹の由緒 十三之巻に記之
 津軽一統志、津軽家の偽書にして正史に非ず、徒に考校為贅す
 本藩正史と可為合考

   津軽系譜
    南部   三男
○ 某 ────────────────────────┐
    幼名彦六郎、後右京亮、又信濃守 居住下久慈、号 │
    金澤卒仙北                   │
┌───────────────────────────┘
└某 ─────────────────────────┐ 
    初金澤若君 右京亮、居住下久慈、卒於同所    │
┌───────────────────────────┘
└光信 ────────────────────────┐
    右京亮、初賜津軽鼻和郡、入部大浦、大永六丙戌年 │
    卒種市(註種里の誤りヵ)十月八日号功樹院長勝隆 │
    栄大居士 葬太平山長勝寺            │
┌───────────────────────────┘
├盛信 ────────────────────────┐
│   右京亮、天文七戊戌年九月廿六日卒、前信州領山源 │
│   統                       │
└某  伊豆守 兼平氏祖                │
┌───────────────────────────┘ 
├為則 ────────────────────────┐ 
└信公 ───────────────────────┐│
      紀伊守居堀越               ││
┌──────────────────────────┘│
├為信                         │
│   伯父為則無嗣子にて死、為為則之嗣子、干時永禄十 │
│   丁卯年三月十八日十八歳被養           │
└女子                         │
┌───────────────────────────┘
├為信 ────────────────────────┐ 
│   実信公男 右京、後右京大夫、初久慈久次郎    │
├女子  養子為信室                  │
└女子  横田弾正室                  │
┌───────────────────────────┘
├信建  早世
│   宮内大夫、慶長十二年十月三日死去京師、号勝利義 
│   隆大禅定門
└信牧 
  越中守
   慶長十二年信建死同年十一月廿三日賜亡父為信遺領
    右見一統志

  頭註
   南部十八代彦次郎時政次男久慈与三郎信実三男彦六郎、父
   信実の家を相続して下久慈を知行せしものなるべし、猶可
   追考
   一説に光信祖父号右京尚以為南部支流、居羽州仙北金澤
   城、国人背亦攻城、尚以自殺、家臣抱幼子越滴石難所来南
   部と云、此説非是歟
   天正中為信従世来南部領横領津軽三郡改姓為藤原、改割菱
   紋為茗荷丸、後自近衛家賜牡丹丸、文禄二癸巳年三月上伏
   見、謁秀吉公賜津軽三郡并合浦下賜之御朱印、慶長十二丁
   未年十二月五日於京都卒、号瑞祥院殿天空養公大居士、葬
   津軽山革秀寺、行年五十八
                 『篤焉家訓』十九之巻

 この説は弘前藩内では相当広く知られていたらしく(『御系譜古代伝説載』)、また『津軽家文書抄』(みちのく叢書第14集・平成13年青森県文化財保護協会刊)によれば、藩は否定しようとした空気を伝えています。それらの副産物として出現したものでしょうか、『可足権僧正筆記之写』に次の系図が散見します。(本文は割愛し、解説文を系図の跡に掲載します。)

4-3  平泉藤原氏に連り、南部家より養子を迎えたとする説
          『可足権僧正筆記之写』抄(尚々書のみ)

尚々申進候、雷火之後旧記無之候由尤ニ候、拙僧迚も逐一は承知無之候、高屋豊前御家之処より出立之件何共分明無之由、是亦尤に候、南部二三男にて無之歟と之義心得違居候、南部家二三男と申事大浦古信州長勝寺殿御代四十年計前、金沢父子後見にて長勝寺殿には右御名蹟に御立あとの間違たるへく候、兼々筆記之内へ入置候、古代系譜出家に候得共、壱枚所持候間、懸御目候御序大守様へも宜御頼申候、以上、
  月日
秀栄───────秀元────秀直────┬女子
 左衞門尉     左衞門尉  左衞門尉 └頼秀────┐ 
 従五位下     次郎    次郎     始藤太  │
 御館次郎                  網代輿免許│
┌───────────────────────────┘
├秀末─────────────────────────┐
│ 左衞門督従四位下 初左衞門尉            │
│ 始藤太、或従三位秀季共               │
└女子 安倍盛季室                   │
┌───────────────────────────┘
├秀光───────秀信──────秀則────────┐   
│ 左馬頭藤太    左衞門佐    左衞門尉     │
│ 左衞門佐                      │
├祐高───────祐元──────信行        │
│ 芝山玄蕃     小藤太     藤次       │
│ 藤次       玄蕃      新庄県子     │
├秀助───────助信                │
│ 西畠式部     藤次               │
└藤蔵                         │
┌───────────────────────────┘
├女子 新庄源三郎某室
├家光───────家信──────女子 大浦信濃守光信室
│ 金沢右京亮    右京亮          
│ 則信番代     元信番代
├女子 家光室
├則信───────元信─────┬光信────────┐
│ 津軽左衞門大夫        │          │
│ 又左衞門尉          │          │
│ 或威信            │          │
├為元 金備前          ├信建 一丁田壱岐  │
│                └為宅 今 備中   │
│         某                 │
│          尾崎三郎右衞門          │
│          同 喜蔵祖(罫線が欠落、元信弟か)│
└某  津嶋某祖                    │
┌───────────────────────────┘
└盛信───────政信──────為則──────為信
                     『津軽家文書抄』

因みに可足権僧正(慶安二年?宝永六年)は、弘前藩三代藩主信義の十一男で四代信政の弟。可是は出家名。『寛政重修諸家譜』には「権僧正・母は某氏、京都の養源院に住職す」と見えます。

『津軽家文書抄』は『可足権僧正筆記之写』全般について次のように解説しています。

 この筆記の要点を記せば、次のようになる。
 津軽鼻祖は、左衛門尉藤原秀栄であり、平泉藤原系である。
 秀栄、父基衡より津軽の内三郡を賜わり、さらに秀衡代には津 
 軽一円を賜わり、十三に住す。(途中省略)後醐天皇方、南軍
 に属し、安倍野にて討死。秀信(左衛門太夫)の頃、威勢奥州
 に輝き、秋田をも併合する。この頃(十五世紀半ば)、秋田・
 南部としばしば合戦、衰弱す。
一、南部より、金沢右京亮(南部家光)が津軽則信(威信)の後
 見として堀越城に入る。威信落城。子元信を経て光信(種里城
 主)に至り、金沢家光の子家信の娘をめとり、金沢の名跡に成
 り、南部の二三男に準じられた。
一、元信は、下久慈で死去、その子光信が津軽(種里)へ帰り、
 花輪一円を領知した。
 次に系図が揚げられているが、この系図は、秀則までは一応、
 まがりなりにまとめているが、秀則以降は、全くの誤記であ
 る。第一金沢右京亮家光も、津軽則信も、同じく秀則の子供と
 しているのはおかしい。
 これも、津軽の始祖を誰にするか、迷っているからであろう(或いは書き写した者の誤記か)      同書26?27頁


  註 南部氏の仙北合戦に関連して下記をご参照ください。

   こもんじょ館
A href="/cgi-bin/komon/komonjo/komonjo_view.cgi?mode=details&code_no=100">南部家の雙鶴紋
   こもんじょ館
「南部を名乗る諸家 11 家臣諸家 2 八戸家 2 戦国期 1」
   こもんじょ館
南部を名乗る諸家11 家臣諸家4 八戸南部家4【由緒異説】
   QあんどA館
南部師行の八戸根城築城説は虚説との見解が云々
   QあんどA館
「南部師行の八戸根城築城説は虚説との見解云々」の中で


4-4  南部守行三男彦六郎則信の息とする説 
         4-1の南部屋形様を南部守行とする説  

   この系図は南部氏の庶流であることを認めた上で、藤原氏
   に改めた経過を伝える面白い系図です。

   
御初代
南部彦六郎源則信公───────────────────┐
   右京・信濃守、一説に家信(遺筆で抹消して家光)公 │
   共云 金沢と御名乗有るとは非也          │
   南部禅高入道三子を召具し鎌倉将軍へ謁せられ、一男 │
   大膳大夫、二男左京亮、三男右京亮と御官位を賜り、 │
   是時右京公大原実盛作、裏へ八幡大菩薩とある太刀御 │
   拝領、則累世之御家宝綱丸是也、後右京公津軽左衞門 │
   殿御嗣子に立せられ秋田一揆の為に御討死      │
   註 禅高入道は南部家十代守行           │
┌───────────────────────────┘
│御二代
└南部彦六郎源元信公──────────────────┐
   右京、信濃守 一説家信公とあり          │
   御父則信公御生害によつて御家臣大曲和泉密に抱奉り │
   於南部御養育、年経て本領下久慈へ御入館      │
┌───────────────────────────┘
│御三代
├南部信濃守源光信公──────────────────┐
│  始彦六郎、右京                  │
│  南部下久慈より西種里へ御徙、後大浦へ御城営、花輪 │
│  郡(鼻和郡)三百五十貫、南部下久慈都て御領地也  │
│  又石川より以東南部幕下たるとて命をうけず、却て確 │
│  執となる、公御憤深く、臨終御遺命により尊骸へ甲冑 │
│  を加へ巽向に葬し奉る               │
│ 大永六丙戌十一月八日 前信州長勝隆栄大居士     │
│ 後謚 功樹院殿 長勝寺御開基            │
│ 御室 天文十二癸卯八月六日 掩粧秀岸壽公大禅定尼  │
├男 一丁田壱岐守 西館祖               │
└男 津嶋備中守  金 佐々木 新岡祖         │
┌───────────────────────────┘
├女 明応年中近衛尚通公当國へ左遷の時媛妃とならせられ  
│  一子を儲、称政信公、盛信公の御嗣君に立せらる   
│御四代
├大浦信濃守源盛信公──────────────────┐
│  天文戊戌九月廿六日 大浦院殿前信州領山源統大居士 │
│  長勝寺 海蔵寺御位牌有              │
│ 御室 天文八己亥八月朔日 華屋貞梁禅尼       │
└男 兼平伊豆守   兼平家祖  法名全叟と云     │
┌───────────────────────────┘
│第五代
├大浦信濃守政信公───────────────────┐
│  実は近衛公の御胤にて、盛信公嗣君に立せらるるによ │
│  り南部家の御所縁絶させらる、後和徳合戦の時御討死 │
│  と云                       │ 
│     遺筆にて                  │
│      是より津軽家系、累代近衛家の流裔となる  │
│  天文辛巳六月八日 前拾遺天津先公大居士 天津院御 │
│  開基     拾遺は侍従の唐名          │
│         天津は天津児屋根の御称名と云    │
│  御室 永禄元戊午八月十四日 又四日共云、光室智春 │
│    大禅定尼                   │
└男 盛岡山城守為治 森岡祖              │
    始源三郎、種里山城守共云            │
┌───────────────────────────┘
│第六代
├大浦信濃守為則公───────────────────┐
│  御幼名三ヶ月殿、右京亮、御舎弟守信公の御子為信公 │
│  を大浦へ被召、婿養子被成、御姉君は御縁結れ被為次 │
│  ぐ御家督三十九の時、一和被成御姉君と奉申は仙桃院 │
│  の御事也 永禄十丁卯七月八日、前信濃守松岳源盛大 │
│  居士                       │
│  御室 慶長十六辛亥七月八日 掩粧梅窓清薫大禅定尼 │
└男 紀伊守守信公  初甚三郎             │
   堀越の城主武田紀伊守殿御嗣子と成、後為則公御代官 │
   として南部於桜庭討死               │
   御子扇公 為信公御末期御嗣子に立せられ称為信公  │
   永禄四辛酉六月十六日 前紀伊守祖岑壽宗大禅定門  │
                       後大居士 │
   御室 永禄三庚申三月八日 桂屋貞昌大禅定尼    │
     後大師                    │
┌───────────────────────────┘
├御七代  御紋 初は桔梗 裏紋は藤に蝶 御治世四十一年
├大浦右京大夫藤原為信公────────────────┐ 
│   初扇、又彦六郎と云               │
│  御叙爵慶應御庚子正月廿七日、御幼名扇、天文十九庚 │
│  戌年御誕生、実は武田紀伊守守信公の智陽南、為則公 │
│  御養君、御國中御伐捕、従秀吉公津軽一円の御朱印頂 │
│  戴、近衛様へ御由緒有之に付、牡丹丸拝領、是より御 │
│  代々不易と云、家康公御代 慶長六辛丑年為信公美濃 │
│  國大垣、同国関ヶ原依合戦、軍功可宛行大國先早速馬 │
│  草為飼料所上州大館二千石拝領す、弘前今の御城は慶 │
│  長九甲辰秋御願之上御城築、此節御検使兼松源左衞門 │
│  正木藤左衞門御下 慶長十二丁未十二月五日 瑞祥院 │
│  殿天室源棟大居士 於京都御逝去、行年五十八歳、津 │
│  軽山革秀寺御開基  御霊屋、長勝寺には御影堂有  │
│  御室 寛永戊辰四月廿九日 仙桃院殿即庵貞心大師  │
│     御位牌長勝寺に有              │
│ 宮内公悲母 御妾                  │
│  元和二丙辰九月廿日 日応昌恵大禅定尼 長勝寺へ葬 │
│ 信枚公悲母 御妾                  │
│  慶長十三戊申五月十五日 栄源院月窓妙林大姉    │
│ 為信公御室                     │
└ 女  仙桃院殿                   │
┌───────────────────────────┘
├         下略           『御系譜』




【関連】 傳 津軽為信末裔の盛岡藩士

 盛岡藩士の中に津軽為信の孫に系を引く家があります

久慈氏           
〔五十石・久慈傳兵衛家〕
姓源   紋旧割菱 九曜 今菱九曜
 某                   久慈隠岐 ──┐
   生国津軽ニテ、津軽越中守信枚三男也、兄津軽土佐守 │
   信義家督ノ後睦カラス、終叛テ浪人トナリ、御国へ来 │
   リテ死                      │
┌───────────────────────────┘
├某                    久慈金七──┐    
│   浪人ニテ、寛文十三年二月十六日死、心庵了無居士 │
│   竜谷寺                     │
└女   矢幅又右衛門定政妻              │
┌───────────────────────────┘
└貞次 或次方   采女         久慈作右衛門─┐
   七戸ニ住ス、重信公七戸御在城ノ時、七戸ニ於テ御家 │
   臣ニ召出サレ小禄ヲ賜フ、重信公寛文五年十二月七戸 │
   ヨリ召出サレ、更ニ稗貫郡中嶋村ニ五十石ヲ賜フ、元 │
   禄六年九月三日死                 │
   妻  七戸工藤重助祐通女             │
┌───────────────────────────┘
├次門  傳助              久慈作右衛門─┐
│  行信公元禄六年家督、享保十年十月十五日死、五十九 │
│   妻   中野五右衛門忠康女           │
├某   久慈弥七郎                  │
│  重信公ノ時幼少ニテ召出サレ、江戸登リニテ世孫章信 │
│  公附ヲ勤ム、江戸ニ於テ早世
工藤利悦 160101


一覧にもどる