![]() |
![]() |
● |
信長公記、天正6年8月5日 奥州津軽の南部宮内少輔(南部政直)御鷹五疋進上 、8月10日、万見仙千代へ南部めし寄せられ、御振舞仰付けられ、此時御礼申され候なり。翌天正7年に遠野孫次郎(阿曽沼広郷)が織田信長に白鷹を献上した際も、万見仙千代という人物、万見重元がその私邸で接待したと見えるそうです。この政直とは信直のことでしょうか。津軽ということで南部庶流とされる津軽為信も考えられますが、信直は政直と名乗っていた時期があったのか、それとも全く別の南部諸流なのかお教え下さい。 |
菊池克好 |
● |
信長公記は改訂史籍収覧19に収められていることは知っておりますが、中を見たことはありませんので、南部宮内少輔なる人物について検討したことはありません。もちろん、近世南部家が纏めた記録には顕在しない人物です。 中世の南部家を取り巻く歴史は、傍証史料は皆無に近い状況と思います。従って、近世南部家の周辺で史実を無視して創造したのではとさえ考えたいものが多々あります。南部宮内少輔という人物についても実在の人物であるか否かを含めて同様のことが云えそうです。 視点を変えて史料批判をしたいと思います。 『信長公記』について、朝倉書店『国史文献解説』は次のように解説しています。 のぶながこうき 信長公記 一五巻。「しんちょうこうき」とも訓む。『安土記』ともいう。織田家の佑筆、太田牛一〔和泉守資房〕(?)の慶長五年(1600)ころの著作。まず巻首に、織田信長の入洛以前のことを述べ、入洛の年・永禄十一年(1568)から天正十年(1582)に本能寺の変での最期にいたる間の信長の事歴を巻一から年月を追つて記している。数々の合戦、越前・伊勢長島・加賀の一揆、そのほか信長の政治活動を詳細に述べたものである。記事の一々について必ずしも信憑はできないものもあるが、戦国期の政治史にとつては『川角太閤記』とともに参考とする点の多いものである。(『改定史籍集覧』19) 次に、萬見氏については、傍証するする史料も否定する史料も持ち合わせていませんが、『戦国人名辞典』の説が正しければ、ご紹介いただきました記録は、大分怪しくなるのではないでしょうか。何故ならば、万見仙千代は天正6年8月5日に既に戦死していると散見するからです。 萬見重元 まんみしげもと(??1578) (仙千代)信長の小姓。神子田長門守の子。信長父子の信任があつかった、天正六年二月八日堀秀政等と、荒木村重を摂津在岡城に攻めて戦死。(原本信長記) 高柳光壽・松平年一共著の『戦国人名辞典』 これを以て、全てを否定するのも早計かと思います。 菊池さんからの問題提起と受け止め、興味をもって史料の発掘に心懸けたいと思います。 【追加】 平成16年1月4日池克好さんより、『戦国人名辞典』に散見する万見氏歿月は誤りであることのご指摘を頂きました。
註 菊池さんからのご指摘により、この箇所へ『信長公記』の説に疑問ありとする立場で見解を掲げていましたが、全面的に削除しました。従って、改めて別項目を立て、自問自答の形で私見を述べることとしました。そちらをご覧下さい。 平成16年1月4日 工藤利悦 【参考】 近世に入って、元文年間頃の記録ですが、『祐清私記』に、信直の事績として、織田信長の許へ馬を献上すべく使者を差し向けたが、使者は途次、本能寺の変を聞いて帰国したとする話が収められています。 一、或時光禄信直朝臣、北左衛門側近く招きて被申けるは、当時天下の名高き武将多しと雖も、今諸人遍知て四海に武威を振り玉ふは織田上総介信長にて御座ぬ。仍而諸国諸士好を結と聞へし、予も参上こそ叶はぬとも土産を副て使者斗も進度思ひとも、遠境の果なれば、乍思難叶、其上代々の巻物も晴政の時代回禄の為に失ぬ。其二三年前に信時公の御父彦次郎通継公系図壱巻八幡宮へ納置玉ぬ。其頃の家老入道何某といふ者其事を知て八幡宮より申下、東禅寺に命て令写之、正系の写なれは。少しも文章の捨別なく、是を代々御伝有りし処に、先君晴政公御時代天文十八年御城炎上の刻、相伝之証文系図迄悉焼失ぬ。此時家従に所持の輩可指上触玉へは、既に三十餘巻集ぬ。其時長谷の長谷寺に命じて是を引合見るに、文字餘多の中より珍しき事共を書抜て始終綴替れども心はおなじ、則御前にて是を清書す。(中略)既に書き畢て後屋形自彼の下書を某が父に賜、其時上意身に余り秘蔵して某に譲りけり。依之御家代々の委事聞覚申とて、左の反古を信直公之御前に御覧に入れけり。 (系図は割愛) 信直公御感悦不斜、然ば信長公ぇ御使者を登らせん、何者か可然と宣ば、北左衛門承り、今度之御使者一大事に候、所詮某罷登り可申、幸能傳に候得は御心易思召とて、御家之由緒を荒々書抜て、僅に馬三疋・大鷹五居所持也、天正十年六月中旬糠部を打立、北国ぇ懸り登りしかは、下越後ぇ着ぬれは、信長公京都にて逆臣の為に六日生害有りし由専沙汰有りけれは、北左衛門不安に思ふ、暫其所に逗留して世聞を聞傳、果して如是、信愛大に力を失ひ今は登りて詮なしと下越後国より本国へ帰りける、 『祐清私記』北左衛門進南部系図 註 掲載されている南部系図は工藤の考証によれば、元禄期まで遡ることのない時期に編纂された系図と勘考されます。従って、この話も信憑性については疑問が残るとしておきます。 |
|
工藤利悦 151221 |