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1 南部師行の八戸根城築城説は虚説との見解がございます、史料にも八戸を所領とした記述がないとのことですが、いかがでしょうか。 2 師行から政長等の八戸南部氏への所領移行の史料もなく師行が持っていただろう所領は誰に引き継がれたのでしょうか。 3 政長の子とされる信政は師行の養子という説もございますがこちらはいかがでしょうか。 |
菊池克好 |
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破切井南部氏(又は根城南部氏)が八戸に本拠を置いたのは、師行の時代からとのお考えによるご質問と拝察します。 この程、東北新幹線が盛岡から八戸まで延びたこ ともあって、八戸市が御説を大々的にアピールし ております。 八戸市の根城址を訪れても案内板、パンフレット には師行と根城の関係を説明しています。 八戸市立博物館の解説書をはじめ、巷間に流布し ている解説書のどれをとっても、同じようなこと を記載しています。 しかし、近世こもんじょ館で紹介したことは、南 部師行による八戸城の築城説について、肯定も否 定もしたつもりはありません。もちろん、虚説で あるとは云っておりません。 私自身も、実は最近までは八戸は南部師行の時か らと思っておりました。そのように思い込んでい たものですから。 その一のご質問 南部師行の八戸根城築城説は虚説との見解のようですが、史料にも八戸を所領とした記述がないとのことで 御案内の通、多くの解説書は周知の中世文書である「南部家文書」を論拠にしているように説いています。「南部家文書」とは南北朝期に認められた、かつ遠野南部家に伝存する、例えば南部師行の書状とか、北畠顕家の書状などの総称です。もちろん書状ですので、どの一通を手にしても、師行以来、根城を本拠地として後世に至ったとは記載されていません。 「南部家文書」が初めて集大成されたのは、推して貞享・元禄年間に家史を編纂する際であろうと推察します。これが現在私たちが目にする『八戸家伝記』です。然しの連発で恐縮ですが、『八戸家伝記』とて、甲州から八戸に移転したのは南北両朝合併の後とあり、師行以来とは記載されていません。師行─政長─信政─信光と代を重ね、信光の子政光の譜に 明徳四年之春其一族郎従甲斐を立退、八戸根城え引移ると 云、是より子孫代々当所ニ住す、此時甲斐梅平館鎮守八幡 宮社身延山之境内え遷座也と云、 とあるのがそれです。 また、『八戸家系』政光譜には、時期の明示はありませんが、ここでも、明徳三年の南北両朝合併以降と伝えています。 今元中九年之比(明徳三年)南帝熈成王與将軍義満卿和 睦、而入洛、居嵯峨大覚寺、譲三種神器於北朝、襲蒙太上 天皇之尊号、称亀山院、於是南朝臣士降者存、敵者亡、其 盛衰恰如反掌也、(中略)政光曰、存亡之事、吾既知之、 然累世浴干朝恩、而今者豈忘祖業哉、抑拠孤城而非企敵 也、唯恥仕干二君也、寧伏乎白刃、不食武家之粟矣、(中 略)将軍感政光之忠義、及守行(本家南部氏)之篤実頗称 誉之乃許容其言而已、 於是乎、政光去甲州波木井及諸邑、 奥州八戸、長住根城云々 それでは南部師行が根城を築城したとする初見は何時か。 詳しいことはわかりませんが、私が管見する史料の中では、明治二十年代に盛岡藩の学者であった川上玄之が、文部省の某氏からの依頼によって纏めた「南部家系図」の中で、仙台藩士で江戸の昌平黌に学んだ斎藤竹堂の書『南部五世伝』を批判し 建武元年源中納言顕家任陸奥国司、居宮城郡、師行為国代 従之始築城、於糠部八戸居焉と、是れ、仙台藩士斎藤某、 何の書に依り此説を吐くや、南部家系は云々 という一節です。川上氏の興奮さめやらぬ情景が紙面に滲み出ているように感じられたものでした。 『南部五世伝』は岩手県立図書館にも所蔵され、目の届くところにありますが、中世史に疎い私はまだ内容を目にしたことはありません。確か明治十年代の著です。斎藤氏の説は、現在であれば「南部家文書」を論拠としていることを容易に想定できます。 一方の川上氏が掲げる論拠は、「太平記」「梅松論」「南朝記伝」等はともかく、「南部根元記」や「南部家譜」「南部家伝旧話集」「奥南旧指録」といった、何れも近世に成立した記録類です。機関銃に向って竹槍で喧嘩しているような話です。 川上氏の「南部家系図」と前後に、これも周知の『南部史要』が刊行されます。同書は南部家に拘る(旧臣)原敬の肝入で、菊池悟朗が執筆したものです。藩主南部家に伝存する記録(但し中世文書は殆ど含まれていない)によっていることはその出典から想定できます。 従って、分流である遠野南部家の先祖と称される師行については全く触れていません。当時星川正甫などは遠野南部家文書の存在を知っていましたのですから、『南部史要』の著者菊池悟朗は知らなかった訳ではないと思います。旧家臣として主家に憚ることは公言しない風潮がなしたのかもしれません。 因みに『南部史要』から、間接的ながら該当しそうな箇所を紹介します。 第十一世信長の伝に補注 茂時公自殺の後領地没収せられ、或は削減せらるとの説あ り、これ右馬頭茂時跡を結城親朝をして領地せしむべしとい へる秋田藩士白川某所蔵の古文書が、大日本史及び五十四郡 考に掲載せられしに基けるものなるも、この文書の日付は元 弘三年十二月とありて、この頃は北畠顕家陸奥国司に任じ、 公既に顕家に属せし後なれば、南部の地を他人に与ふるの謂 れなしと南部世譜附録は弁ぜり 註 文中の右馬頭茂時について、昨今の学説は 南右馬頭茂時こと鎌倉幕府の連書であった 北条茂時とする説が有力です。 一説に公は顕家と共に石津に戦死すと、また顕信に従て陸奥 に帰るの途石塔義房と戦て死すともいふ」 第十二世政行の伝の補注 公の事績については、諸旧記の載するところ区々にして、南 北朝時代においても公が南朝側にあらずして北朝に属せりと するものまた多し。公国史には足利尊氏新田義貞と矢矧に戦 て敗走するや、公足利直義の軍に属して箱根宮の下に戦ひた りとあり、また楠正行義兵を挙ぐるや、公高師泰の軍に属し て正行を四条畷に攻むとあり、奥羽旧指録・南部家伝旧正 録・南部御家氏等には、公が尊氏の配下に属して数度の軍功 を奏したるを以て、尊氏よりして本領安堵の教書を賜ひたり とあり。而して南部家所蔵の古文書中にも尊氏の教書といへ るもの二通あり。されどこの古文書の日付は暦応(北朝の年 号)二年三月とありて南朝の興国元年に当り、同年三月は公 の父信長公在世中にして、信長公が南朝に尽せること明かな る事実なれば、公に対してその年代に尊氏より教書あるべき 筈なく、古文書は信ずるに足らずと南部四世事績考に弁ぜり 冒頭にも申上げましたが、私も南部師行の時から八戸に本拠をかまえていたと思い込んでいました。しかし、少なくともある時期から疑問を持っていたのは事実です。『祐清私記』に八戸氏の由緒に関する記録が二点収められています。しかし、そこに掲載されているのは説話であって史実というような認識はありませんでした。『公国史』の破切井伝、八戸工藤伝を目にして、はてな、と感じるようになったのです。 今一度 こもんじょ館「南部を名乗る諸家11 家臣諸家4 八戸南部家4【由緒異説】」を参照頂きたいと思います。 『公国史』の成立は藩政末期ですので、史料価値からすれば私も首を縦に振るつもりはありません。惹かれることは唯一点、著者星川正甫が甲州から遙かに遠隔の地「盛岡」にあって、現在ならば手段は様々あると思いますが、中世の甲州の情報をどの様にして蒐集したのだろうか。その情報は精密でないまでも、傍証できる形で大筋を捉えてあり、これに畏敬の念を抱かずにはおられません。とは申しましても、人様を説得できるだけの傍証史料が有るわけではありませんし、また筆も立ちません。 『系図纂要』清和源氏十八 南部系図の内、破切井系図によれば 実長 ───────────────────────┐ 破切井六郎住甲州破切居 一に波木井 │ 永仁五年九ノ廿五死 日圓 │ ┌──────────────────────────┘ └長義 ──────────────────────┐ 弥六郎 正和二年十二ノ廿四死 日教 │ ┌──────────────────────────┘ └長氏 ───────────────────── 信乃守 貞治六年八ノ九死 日長 一方、『八戸家系』 には 実長 ──────────────────────┐ 彦三郎 没年記載なし 法諱輝山源公 │ ┌──────────────────────────┘ └実継 ───────────────────────┐ 彦次郎 法 奇厳嶮英 │ ┌──────────────────────────┘ └長継 ──────────────────── 四郎 元享二年安藤又太郎、於干奥州叛北条高 時、云々 と全く噛合わない両系図です。法名について見ても『系図纂要』は日蓮宗に関係した法名ですが、一方の『八戸家系』は、或は間違っているかも知れませんが禅宗系の戒名のように見受けます。敢て接点を求めるならば、『系図纂要』の二代目長義は正和二年(一三一三)の死去。三代長氏は貞治六年(一三六七)の死去。一方の『八戸家系』に見る三代目長継は元享二年(一三二二)に健在をもって、長義と実継は兄弟の線が大筋妥当なのでないでしょうか。但し、この際『祐清私記』特に『公国史』の説は無視しての話です。 「近世こもんじょ館」は諸説があることを示したもので あって、結論はご覧になられた方が、自分なりに導かれ ることであろうと思います。 その際、是非お願い申上げたいことは、 纏められた論考は「れぽーと館」に掲載して頂きたいこ とです。 蛇足です。 新聞ならぬ旧聞ですが、八戸の地方紙「デリー東北」(平成13年11月3日附)の記事を紹介します。 国重文鎧奉納者か 八戸・櫛引八幡宮 唐櫃に「菊地武義」の人物名 応永二十四年七月一日の日付も 中世史に迫る糸口に 青森県史編さん室と八戸市史編さん室が二日(平成十二年十 一月)が、南部地方の中世史を調べるため、国宝級の鎧など が収蔵されている櫛引八幡宮(八戸市八幡)の国営収蔵庫を 調査した。この結果、国の重要文化財である鎧の「白糸威肩 赤銅丸」が置かれた唐櫃に、奉納者とみられる「菊地武義」 という人物名や、「応永二十四年七月一日」という日付の奉 納書が確認された。収蔵物の本格的な調査も奉納書の確認 も、公には初めて。関係者は「これまでなぞに包まれていた 櫛引八幡宮と鎧の関係、ひいては中世の八戸地方の歴史をひ もとく大きな手掛りとなる」と注目している。 初の公的調査で確認 調査は県史編さん中世部会が、市史編さん室と櫛引八幡宮の 協力を得て実現した。盛田稲太郎宮司の立会いの下、県史か らは部会長の斎藤利男弘前大教授ら八人、市史からは三浦忠 司室長ら四人が参加した。 唐櫃は鎧を収納しておく箱で、高さ五十四センチ、幅六十二 センチ、奥行四十二センチ。県史メンバーの遠藤宮城教育大 教授によると、前面と裏面の書名は中世に書かれたもので、 「檀那」は寄進者を意味し、「菊地武義」は「恐らく最初の 奉納者だろう」という。 前面 檀那菊地武義 太歳 応永廿肆年七月一日 丁酉 裏面 初百内 福王寺 右側面 五戸 羽禰崎 菊地武義はこれまで南部史には登場しない人物。キクチとい えば南北朝時代を中心に九州地方で勢力を誇った菊池一族が 有名だが、「地」ではなく「池」を当てる。 裏面の「初百内」は年六回ほど行われる法会の一つ。福王寺 は、弘前市に似た名前の寺があったというが、現段階では場 所不明。 右側面は前面や裏面より時代が新しい。三浦室長は「八戸市 内には『花崎』という地名があり、『羽禰崎』と関係がある かもしれない」としている。 櫛引八幡宮には「赤糸威鎧」や「白糸威鎧褄取鎧」をはじ め、四体の鎧が唐櫃とともに収蔵されている。しかし、制約 も多く、なかなか研究が進まなかった。 唐櫃書は八戸市の郷土史研究家・小井田幸哉さん(故人)が 個人的な研究で指摘していたものの、公の調査でなされてい なかった。 斎藤教授は「この唐櫃が実際に白糸威肩赤銅丸を収納してい たと仮定した場合」とした上で「今回の奉納書きは解釈がい ろいろ広がるが、根城南部の歴史が南部だけで語れなくなっ てきた。菊池武義という人物が一つのポイントだが、従来の なぞを解く手掛りになる」と強調。 「今後、八幡宮の協力が得られれば、エックス線を使うこと も検討したい。研究を重ね、数年後には青森県史の中世史料 編(全四巻)に記載する」と話している。 県史編さん中世部会の調査は五年前から県内外で行われてい たが、櫛引八幡宮を含む八戸地方は今回が初めて。一行は四 日まで、同市内の大慈寺や小田八幡宮なども調査する。 この記事を見たとき、『公国史』と併せて『南部家文書』第七十四号から第九十一号文書である官途状のことなどが頭をよぎりました。 (工藤氏の)臣弐拾人軍功により、依之叙爵を賜り、宣旨前 右馬頭休顕奉ずる所の証文及橘甚兵衛に賜ふ所の鎧等、今に 皆八戸氏に伝ふ云々 『公国史』列伝の内 八戸工藤伝 新聞記事に依れば、鎧を寄進した人物は菊地武義と有り、方や橘甚兵衛と氏名は違うものの一脈通じるものがあります。 『公国史』には二十人に叙爵を賜りと見えますが、『南部家文書』によれば十八人分の官途状が現存している。改めて『公国史』の著者星川正甫の調査に畏敬の念を感じぜずに居られませんでした。 上記の記事をどの様にお読みなりましたか。 私の結論は、現在思い込まれていることは、「単なる思い込みであって史実は何処にあるのか闇の中」ということのみです。 第二のご質問です。 師行から政長等の八戸南部氏への所領移行の史料もなく師行が持っていただろう所領は誰に引き継がれたか。 私がここで頼れる史料は、吉野朝史蹟調査会編『南部家文書』のみですが、御承知下さい。 元弘三年に、師行の所領については不明ですが、甲州南部郷の村地頭職に関連して一族間で所領争いがあった記録(第三号文 書南部郷以下所領訴訟目安)が伝来しています。訴人は孫三郎の子南部三郎二郎武行。論人は二郎政行の子南部五郎次郎時長での争いです。同訴状には両者の関係は不明ですが、師行と政長の名前が散見します。南部系図には対決者である武行も時長も見えてきませんが、仮に『寛政重修諸家譜』巻第二百十を援用し、『系胤譜考』から師行は二郎政行の次男、政長は二郎政行の四男(『八戸家系』は単に師行が弟としています)を請けて図式化すると次のように描けると思います。 南部光行─実光─時実┬宗経 ├政光 ├政行┬時実 │ ├師行 長継の跡を継ぐ │ ├ │ └政長 ├宗実─武行 └義元┬義行┬茂時 │ └信長 ├祐行 └宗行 師行の跡を継いだ政長に対しする譲状は伝来していない様です。 政長の子信義は興国三年(一三四五)父に先立ち死去し、信義の子信光が祖父政長の家督を正平五年(一三五〇)に嫡孫承祖し、その譲状は五十二号、五十三号文書として伝来ています。信光から政光への天授二年(一三七六)譲状は六十一号文書としてこれも伝来しています。それらは何れも八戸を譲渡すとしたものです。 問題は『公国史』は、破切井氏が工藤氏を脅迫。体面上は婿養子による入籍と装ってはいるものの、天文年間に居城はおろか、家臣を含めて什器文書類の総てを乗っ取た結果が現在である。と断言していることなのです。 詳細はこもんじょ館「南部を名乗る諸家11 家臣諸家4 八戸 南部家4【由緒異説】」を参照頂きたいと思います。 次ぎなる疑問は、南北朝合併のとき、南朝の忠臣としてめざましい活躍をした八戸氏を北朝方である足利幕府はどの様に処遇したのだろうか。ということです。 『八戸家伝記』が伝えるように、明徳四年に甲州を引払って八戸へ移住。永住したとする説も近世初期に文字化されたものを論拠にしての話です。あくまでも仮定の話ですが、足利幕府によって郡地頭職なり、村地頭職を剥奪されたと言うことは考えられないのか。光政の時代に出羽仙北に所領があったことことについて、以前所見を申しましたが、それとて知行替の結果であったのか、師行以来の承継なのか不明です。 結論に替えて私見を申上げるならば、現在傍証する記録がないから、その様な史実はなかったと暴言を申しているのではありません。私には解きかねる。 但し近世初期に既に中世の知行に関連する記録は散逸していた可能性が大きいと思います。 『八戸家伝記』が、中世の所領を石高制で解説していること、それが如実に物語っております。私の知る範囲では、太閤検地の後、岩手県関係では、和賀郡は天正末年から石高制が見えます。奥州仕置の後、和賀・稗貫二郡は浅野長政領となった時期があることから類推してもあって当然と考えます。その北に位置します紫波郡においては慶長の初年に未だ苅制での知行状が伝存しています。鹿角郡では慶長六年のものが現在確認できる初見です。 従って、これだけ疑問が山積する中で、解説書の著者は何を論拠に「師行が根城を築城後、連綿として八戸を領有して来た」と断定できるのか大いに疑問を感じます。論拠を明示すべきです。 同説は、推して誰かの思い込みにはじまり、孫引した人があり、親亀の上に子亀、子亀の上に孫亀式現象で流布し、現在に至っているだけ。これが真相ではないでしょうか。 以上は、総て気になる『公国史』説を無視しての見解です。 第三のご質問です 政長の子とされる信政は師行の養子という説 何度も申しますが、私は中世史には疎い者です。 従ってHPのタイトルも「近世こもんじょ館」です。また、遠野南部家についても徹底した調査を試みたことありません。 以上のことから、相当突っ込んでお調べのご様子であります菊池さんと対話出来ることは、新しい境地を拓く上でありがたいことです。反面、何か手の内を見透かされているようで恐ろしさも半分です。前書は以上にして、管見する史料に限りますが、次のようにお答します。 1 『尊卑分脈』清和源氏 第三頼義次男賀茂二郎義綱三郎義光流 南部系図 光行───┬朝光 南部太郎 南部三郎├実光───┬時実────┬政光 南部孫二郎 │ 南部二郎│ 南部又三郎├宗実 南部孫三郎 ├行朝 └宗光 ├実政 南部彦三郎 │ 南部三郎 └政行 南部六郎 └実長 南部小四郎 伝存最古の南部系図であり、これが全体です。 『尊卑分脈』にはご質問に応える材料は含まれていません。 2. 『系図纂要』清和源氏十八 南部系図の内、破切井系図 師行も政長も信政も見えません。 こもんじょ館「南部を名乗る諸家11 家臣諸家4 八戸南部家4【由緒異説】」に掲載の系図を参照 下さい。 3. 『八戸家系』 南部二郎政行──┬[ ] 南部実長─実継──長継───├師行 彦三郎 彦次郎 四郎 │ 実は政行次男、長 │ 継の跡を継 └政長──────信政 実は師行弟 三郎 師行の跡を継 1の南部六郎政行と、2の南部二郎政行は仮に同人とすれば、 師行も政長も南部又三郎時実の子とあります。 次ぎに政長と信政の父子につい、本史料でみる限りでは実 父実子であって養子関係が成立していたことの有無には触れ ていません。従って、ご質問に応える材料は含まれていませ ん。 4. 『系胤譜考』 寛保年間に盛岡藩が諸士に命じて書上させた 系図を集大成した記録です。周知の参考諸家 系図は本史料を原史料の中心に据えて増補・ 構成替えをした私撰系図集です。 四代 師行 又次郎、実は南部次郎政行之二男也、母は長継(三代) の同胞の妹也。六郎貞継依早世、長継師行を為婿養子 云々 五代 政長 六郎、後任遠江守、実は南部次郎政行公四男、以て師行 実弟也、若年より武勇之器量有之に付、師行為聟養子、 六代 信政 三郎 母師行娘也 七代 信光 三郎、力王丸、のち称三郎、母は工藤左衞門尉藤原貞行 女 かいす御前と号す、正平五年八月十五日信光、祖父 政長譲を請て当家を継 註 七代信光は五代政長の跡を請けて嫡孫承祖したと あるからには、信光の七代を六代と改め六代信政 は削除すべきですが、史料の儘としました。 結論から申して 「政長の子とされる信政は師行の養子」説を記録する史料は、寡聞ながら、管見史料からは得ることが出来ませんでした。 そこで逆質問させていただきます。 質問の趣旨は「師行の跡を政長は相続しなかった。師行の跡は 師行には甥の信政が相続したと云うことでしょうか。 総じて感じたことは、ますます疑問が山積してきたという実感です。 |
工藤利悦 |