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文化勲章を受賞した作家里見惇は、有島武の四男と何かでみましたが、盛岡藩士の末裔であるとも聞きました。有島家は確か鹿児島藩士であったとおもいますが、盛岡藩士の末裔というのは本当でしょうか。 |
鈴木利夫 |
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里見惇は本名山内英夫といい、盛岡藩士の娘を母に持ち、母の実家を相続したため、本人も盛岡藩士の末裔であることを云っていたそうです。 お断り 「惇」は弓編に享ですが、活字がないので代用させ て頂きます。以下同じです。 里見惇略歴 本名山内英夫 文化勲章受章者、日本芸術院、日本 ペンクラブ各会員 日本文芸家名誉会員演劇協会顧 問、作家、東京都出身 明治二十一年七月十四日有島武の四男に生れ、母方 山内家を継ぐ。学習院高等科卒業、同四十三年東大 英文科中退創作に志し、同年「白樺」創刊に参加、 創刊号に短篇「お民さん」「家出」を発表爾来幾多 の作品を発表して文壇に認められ、大正八年同士と 雑誌「人間」発行、昭和二十二年七月芸術会員に挙 げられ、同三十年「恋ごころ」により読売文学賞を 受く。「まごころ主義」を唱えテカダンスの生活に 人間追求の場を求め自己及び自然に忠実であること を理想とする創作態度を持す。其間明大数授とな り、戦後「原田日記」の監修に当り、昭和三十四年 文化勲章を授与さる。作品に「多情佛心」「大道無 門」「善心悪心」「八畳記」「桐畑」「今年竹」 「羽左衛門伝説」戯曲「新樹」等あり、以下略 拠 大日本紳士連合協会『大日本紳士大鑑』昭和 五十三年版 補注 昭和五十八年一月二十一日死去 行年九十四歳 まず、昭和58年、里見惇訃報に際して『岩手日報』58.1.24附が 掲載した新聞記事を紹介します。 故里見惇氏と盛岡 文化勲章受筆者で芸術院会員の作家、里見惇(弓編・活字 がないので以下準用します)氏(さとみ・とん、本名山内 英夫・やまのうち・ひでお)が、二十一日他界した。九十 四歳だった。明治末から大正期にかけて日本の近代文学、 美術に大きな足跡を残した同人雑誌「白樺」創刊同人の最 後の生き残りの一人として、多くの傑作を残した里見氏は 母親が盛岡出身で、里見氏自ら"岩手県人"を自認していたこ とは、あまり知られていない。里見氏の母は南部藩士、山 内家の娘で、里見氏も山内家の養子だったからである。里 見氏は有島家で育っているが、幼少の一持期、盛岡にいた こともあるといわれ、そうした縁で盛岡には度々訪れ「盛 岡は私の故郷である」と話していた。里見氏と盛岡のゆか りを紹介しよう。 母が南部藩士の娘 山内家の養子に 里見氏の母幸子は南部藩士の娘で、結婚前は藩主利剛につかえていた。幸子の家は代々南部藩江戸表留守役を務めていた。幸子は、その六代目山内七五郎と志づの三女として、安政元年(一八五四年)に江戸で生まれている。四歳で父と死別、元治二年(一八六五年)に盛岡城下に移り、藩主利剛公につかえるため、城中に召され、御殿女中となっている。 註 山内家は明治三年まで加嶋氏を称していました。 城中では老女から漢籍和文、書、香、茶、馬術、長刀などの教養を受け、利剛夫人明子(水戸・徳川斎昭の娘)から和歌の手ほどきを受けたといわれる。 明治維新のため幸子の城中勤めは明治三年で終り、明治十年に遠縁の新渡戸稲造のおじ、太田時政の仲人によって薩摩藩北郷氏の臣の有島武と結婚するのである。 そして、武郎、愛、壬生馬、志摩、隆三、英夫(里見惇)、行郎の五男二女を生んだ。幸子の夫、武は初め政府の書記官だったが、次第に出世して横浜税関局長、国債局長となっている。この間、幸子は和歌を続け、与謝野寛、晶子夫妻によつて「有島幸子歌集」(昭和十年)が編まれている。ほかに「旅のよせがま」「親殺しの話」「母のおもかげ」などがあり、文芸に優れた才能を示した。 文芸だけでなく社会運動にも活躍し、明治三十四年に奥村五百子らと愛国婦人会を創立したほか、島地黙雷の法縁で西本頗寺令女教会を創設。さらに白蓮社の後進である千代田女学校の設立にも尽力して理事となっている。 こうした芸術的気質と社会活動家としての熱情が武郎、生馬、惇の芸術三兄弟に受け縫がれたものとみられる。 里見氏の本名が山内英夫となっているのは、里見氏が十三歳のとき、山内家の養子になったためで、そのときの披露宴も盛岡の料亭で行われている。 里見氏は昭和二年に来盛した際、岩手日報記者のインタビューに応じているが、そのとき披露宴のことや、初恋の人が盛岡の同年輩の女性であったことを告白している。 里見氏が無類の野球好きだったことは、よく知られている。若いころから草野球と親しみ、還暦古希、傘寿を草野球の会を開いて祝ったほどである。里見氏の野球好きも、少年時代に一時、盛岡の一条家に預けられたとき、同家の子息友吉氏に時々、盛岡中学に連れて行かれ、野球見物をしたのが病みつきになったものとみられる。 昭和二年、岩手日報に掲載 初恋・城跡・雪 心打たれる町 昭和二年五月十八日付岩手日報に「盛岡は私の故郷である」 の見出しで来盛時の里見氏の話が掲載されている。 以下その全文である。 盛岡は私の故郷である。私は盛岡の生まれである。今はその家がどうなっているかしらない有島という家に生まれたが、母の実家は山内といって、この土地の士族であった。そして私は故あって山内の姓を名乗らなけれはならなかった. 故郷といっても、ほんの幼い時のことで深い印象もないが、上京してから十三の時、一度来たことがある。それは両親が北海道の農揚に赴く途中のことで、よく覚えていないが、私を鷹匠小路の一條さんという家に預けて北海道に赴いてしまった。私は淋しかったが、仕方なく一人留守していた。 一条さんの家は小高いところにあり、広い庭には池などがあっていい所だった.その家に私より二つ三つ年上で中学校に通っていた息子さんがあった。名前も今ではほとんど記憶していないが、友吉さんとかいったと思う。時々中学校に伴われて野球見物したものだ。 私はその時、盛岡に一週間ぐらいいたものか、十日いたものかよくわからなかったが寂しくて耐えられなかったことだけしか記憶していない。遊び友達は前に言った一條さんめ子息のほか、久慈なんとかという、やはり同じ年輩の人があった。毎日お城の跡や石割桜などと引っ張りり歩かされた。 ある時は、かなり遠いと思ったが、山の陰にある滝見物にも行った。また後藤定光という馬の彫刻をやっている人の家に遊びに行ったことがあったが、削りかけた木片なとが、いっぱい取り散らかしてあり面白い家だと思った。 そしているうちに両親が北海道から帰って来て、ある日のこと、私が山内家を継ぐことになった。その披露宴のようなものが、ある料亭で催された。十三の私は主人役で大勢、親戚の人々を招待した。 私は大人のはかまを借り深い腰上げをした変な格好をしたものをつけて、その席に列したが、気まりが悪くて、なんとも言うことが出来なかった。 ある日のことである。中津川のほとりの、なんとかという家だったか、よく覚えていないが、友達に連れられて行ったことがある。私と同じ年ごろの、きれいな娘さんがいて、二人とも気まずさを感じながら、いろいろ語ったことがある。 その時、私の胸ははつかしさで、いっぱいであった。私は初恋め人だと感じたが、もう、二人は、すぐ別れなければならなかった。本当に淡い初恋の印象に過ぎなかった。 それから盛岡にもう一度来たことがある。それは東京に大地震があった年の初冬のことであった。盛岡劇場で文芸講演会があり、久米正雄、田中純、それから音楽家の榊原直君らと来たことがある。その夜は非常な雪で講演会が済んで劇場から帰って行く若い女達は、赤い、風呂敷などをかぶって、ぞろぞろ劇場から出て行くのであった。ちょうどロシアの小説によく見るような何かの儀式に参列したロシアの女達が、雪をついて帰って行く光景を感じて心を打たれた。 盛岡は実に静かな、なつかんい町だと、いつも思っている。 盛岡藩士としての山内家 盛岡藩の家臣山内家は、初め加嶋氏を称していましたが、 明治維新の後、明治三年に加嶋氏を本姓に復して山内氏と 改めています。 遠祖に山内首藤上野介通家があり、以降近世初頭までの系図を以下のように伝えています。 山内首藤上野介 守藤太夫 守藤権守 刑部丞 経通とも 通家────資清───資通───通義──俊通──┐ ┌───────────────────────────┘ │首藤三郎 縫殿助 弥三郎 刑部丞 └─時通───通綱──通資───────────通時──┐ 平治の乱に義朝に仕え討死 │ ┌───────────────────────────┘ │肥前守 下野守 上野介 上野介 山内上野介 └─通継──通忠─────熈通──時通───泰通────┐ 実は通時二男 │ ┌───────────────────────────┘ ├─豊成 天野新左衞門 │ 紀州高野山に千聖院を建立 │ │天野出雲守 民部丞 五郎左衞門尉 └─豊則────元豊────────豊英────────┐ 中国より九州に移り 大友氏滅亡の時浪人 │ 大友宗隣に属す 寛永十一年京で死去 │ ┌───────────────────────────┘ │ ├─英次 五郎左衞門尉──┐ │ 寛文十年豊後佐伯にて死去 │ │ 妻 大友左兵衛督家中加嶋内記女 │ └─親英 野崎平九郎 有馬頼元に仕え三百石を宛行れる │ ┌───────────────────────────┘ │ └英貞 加嶋市郎右衞門──┐ 母方の祖父加島内記の許、土佐で養育され、加島市 │ 郎左衛門を以てその名跡を相続。のち江戸に出て元 │ 禄四年盛岡藩主南部重信に召抱えらる。同年盛岡に │ 移り、地方二百石を宛行れる。次いで江戸定府とな │ り、元禄十一年に隠居。のち隠居料を擬がわれて丹 │ 後(京都府)田辺三万五千石の城主牧野河内守英成 │ 家に移り、夫人鎮姫(藩主南部行信の四女重子)の │ 奥使を勤め、牧野家から別に十五人扶持を給与され │ る。その後擬を地方百三十石に色替され、表用人格 │ となり鎮姫後見となる。のち更に三十石を加増され │ て高二百石となり、二戸郡女鹿村に五十石を、同郡 │ 楢山村(以上一戸町)に五十石、三戸郡斗内村に五 │ 十石、同郡泉山村(以上青森県三戸町)に五十石を │ 知行、正徳三年死去。 │ ┌───────────────────────────┘ └英積 助之進──┐ 元禄十一年家督(高二百石)を相続、取次、宗門奉 │ 行、目付、下屋敷留守居宗門奉行兼帯などを歴任。 │ ┌───────────────────────────┘ ├英賢 又三郎 丹右衛門 舎──┐ │ 寛保二年部屋住で世子信貞の側役に登る、この時 │ │ 名を舎と拝領、宝暦三年勤功を以て部屋住料五人扶 │ │ 持を宛行わる、同七年下屋敷留守居見習側役奥使兼 │ │ 帯、家督の後、留守居役、用人と歴任する。 │ │ ┌─────────────────────────┘ │ └ (以下割愛) │ 明治元年支配帳 │ 三百五十石 加嶋加録 │ ├英誠 加嶋 蔀──┐ │ 宝暦二年に江戸で召出され、世子信貞の側役となり │ │ 別に四両五人扶持(高五十石)宛行われる │ │ 寛政八年隠居、享和二年死去 │ │ ┌─────────────────────────┘ │ └ (以下割愛) │ 明治元年支配帳 │ 百 石 加嶋市蔵 │ ├英林 加嶋判左衞門──┐ │ 明和二年召出され四季施五両三人扶持を宛行る。 │ │ のち定取次を勤める │ │ ┌─────────────────────────┘ │ └ (以下割愛) │ 明治元年支配帳 │ 八両五人扶持 加嶋詮太郎 │ │ │ 加島七五家が里見惇の家です。 │ └英富 七五郎 加嶋判右衞門──┐ 藩主利雄の代に召出され四季施五両三人扶持を宛行 │ われ定府となる。世子利謹御側役となる。次いで定 │ 取次、明和七年留守居見習、のち本役、用人留守居 │ 兼帯と昇進す。追々加増、金方二十一八人扶持、高 │ に〆て百五十三石となる。 │ ┌───────────────────────────┘ └ 七五郎──┐ 文化五年に留守居見習下屋敷留守居御用共と見え、 │ 翌五年閏六月留守居役となる。文政四年頃まで活躍 │ の様子が散見、同七年支配帳に七五郎が見える │ ┌───────────────────────────┘ └ 金弥 加嶋判左衛門 山内判左衞門 大六──┐ 家督の後、文政八年留守居見習と、のち本役となる │ 天保四年に罪を蒙り、留守居罷免、家禄三分二取上 │ 蟄居、隠居となる。天保十年蟄居御免、同十四年別 │ に山内判左衛門で召出され、金方五十石を宛行れる │ 嘉永二年山内大六と改名、福岡通・黒沢尻通・五戸 │ 通代官等を歴任す │ │ 明治元年支配帳 │ 十両 山内大六 │ ┌───────────────────────────┘ └英邦 金吾 加嶋七五郎───┐ 実は 子 │ 天保四年養父隠居を請けて家督(金方五十一石) │ 弘化二年定府、同四年留守居で散見す。 │ ┌───────────────────────────┘ ├信子 「岩手日報」記事には幸子と記載 │ 有島 武と婚姻 │ 山内英夫(里見惇)の母 │ └英郎 加嶋鉞五郎 のち山内鉞五郎 山内英郎───┐ 安政四年家督、文久二年国勝手となり盛岡に移住。 │ 明治三年山内鉞五郎、更に山内英郎と改名 │ 明治八年『士族明細帳』 │ 同十一年の『士族明細帳』記載の居住地 │ 盛岡 平山小路一番屋敷 山内英郎 │ 明治三年十一月改正『戸籍』 │ 七月五日復姓願之通 │ 加嶋 │ (この文字の上に張紙) │ 山内鉞太郎 十五歳 │ 註 鉞太郎とあるのはこの史料のみ │ 明治二十一年死去 │ ┌───────────────────────────┘ └英夫─────────────────────────┐ 実は有島武四男 英郎甥 実母は英郎の姉 │ 略歴 冒頭に記載 │ ┌───────────────────────────┘ └鉞郎 (「参考諸家系図」「身帯被召出並分地」「御役人面附帳」「南部略武鑑」「支配帳各種」「士族明細帳各種」「盛岡藩御国住居諸士」「共有桑田権利者名簿」「旧盛岡藩士桑田名簿」その他) |
工藤利悦 |