戊辰戦争と鹿角
安村二郎

戊辰戦争と鹿角
      平成十年・130周年に思い新たなるもの
 
1、はじめに
 
 ことしは戊辰戦争130周年に当たることから、県内でも次第にその論議が高まってきた。この度の大きな特長として、まず県内で戦って戦没されたすべての方々、いわゆる官軍側だけにとどまることなく、賊軍あるいは朝敵藩とよばれた奥羽列藩同盟側仙台、庄内、盛岡など各藩の士卒・農兵を含めた合同慰霊祭が、この10月秋田市で行われることである。戊辰の際の賊地だった鹿角も加わって開かれる、全県規模の記念行事はこれまで一度も実現したことがなく、まさに130年にして初めて迎えた画期的意義ある年ということができる。
 
 戊辰戦争ということばは、われわれ戦前戦中の皇国教育を叩きこまれた者にとって、反射的に南部賊軍、南部の火付けという暗いイメージを蘇らせ、屈辱感というか被差別感というか、やりきれない気分に落ち込ませる自己暗示的効果をもつものであった。しかしもはや戦後を遠く隔て、戊辰戦争についての研究も進み、官軍藩・朝敵藩といった単純な対立構図はその意味を失い、いまや評価が大きく変わってきた。
 
 われわれは、かつて強制されてきた官軍・賊軍というドグマから抜け出し、いわれのない負い目や引け目とも訣別し、すみやかに鹿角の歴史に誇りと自信を回復しなければならない。そのことは、これからの地方の発展が、文化・福祉分野を含め、必然的に行政の枠を越えた広域連合・地域連携の方向へ進むことを念頭に置けば、われわれ自身がまず過去のわだかまりを捨て、虚心担懐に、隣接市町村の人々と融和し合わなければならない。鹿角モンロー主義を克服し、地域発展の将来展望を開くためにも、戊辰戦争を正しく理解する必要に迫られている。
 
2、戊辰戦争は、薩長両藩の主導により始まる
 
 戊辰戦争は、1868(慶応4)年1月3日の京都鳥羽伏見の戦いに始まり、翌(明治2)年5月18日函館五稜郭落城・榎本武揚軍の降伏により終息する討幕派と旧幕府勢力の戦いである。私たちにとってのクライマックスは、東北地方に戦火が拡大し、奥羽鎮撫総督府軍と奥羽列藩同盟軍が秋田佐竹領内で激戦を交え、なかでも南部盛岡藩の鹿角口における8月9日から9月20日に至る40日間の攻防戦であった。
 
 戊辰戦争の起こる前、わずか1カ年程の経過をたどるだけでも、そこには息詰まるような討幕派と将軍徳川慶喜側の応酬・暗闘が繰り返されていた。慶応2年12月5日慶喜は辞退していた征夷大将軍・内大臣にようやく就任、その20日後に孝明天皇急逝、慶応3年1月9日睦仁親王(明治天皇)16歳践詐、やがて勅勘中の王政復古派公卿ら続々宥免される。3月5日慶喜の兵庫開港勅許秦請不許可となる。5月23日慶喜、長州藩処分の寛大と兵庫開港を秦請、勅許決まる。6月22日薩摩・土佐両藩大政奉還の盟約成り、9月18日薩摩・長州両藩討幕挙兵盟約を結ぶ。10月13・14日討幕の密勅、薩摩・長州両藩主に下る。同14日慶喜、大政奉還を請う。12月9日討幕派のクーデターによる王政復古の大号令が発せられ、同夜小御所会議で慶喜の辞官・納地を決定。その後も慶喜は大坂城に入り恭順して動かず。
 
 この王政復古クーデターに至るまでの、討幕派の強引な策謀のめざすところは、慶喜や旧幕臣の憤激を誘い、武力討幕へ移るきっかけを作るための挑発行為であった。そのことはクーデター前日の8日、西郷隆盛と大久保利通が岩倉具視へ送った書翰に、大要「王政復古の発表で一波瀾起こるかも知れない。しかし200有余年の旧習を断ち切るためには、なんとしても一度は武力に訴えてみせなければならない。でなければ天下の人心を改めることはできない」と、その開戦をめざしての奮起を促した内容からも十分に読みとれる。
 
 しかし、なお動こうとしない慶喜の冷静さに焦燥を感じた薩摩側は、江戸へ浪士隊を送って市中の撹乱を企て、掠奪、放火、暴行をくり返す行動にでた。12月25日ついに江戸の治安をあずかる徳川譜代の庄内藩などが三田の薩摩藩邸焼打事件を起こすに至った。なおこのことはあとへ尾を引き、翌年4月奥羽鎮撫総督府の久保田藩に対する庄内藩討伐下命となってあらわれる。
 
 ともあれ、薩・長など討幕派への、佐幕諸藩、旧幕臣の憤慨が極度に高まり、慶応4年1月1日慶喜もこれを抑えきれず、討薩表を提出して入京を決意、同3日、鳥羽・伏見両街道から進んだ会津桑名両藩を中心とする旧幕軍は、早くから万全の迎撃態勢を整えていた薩・長藩兵と衝突し、結果は旧幕軍の敗走に終わった。数日を経ずして慶喜は大坂城を脱し、海路江戸へ入る。
 
 この鳥羽・伏見の戦いののち、新政府側の戦略は予定通り手ぎわよく進められた。徳川慶喜と会津松平容保らを賊徒・朝敵と呼び、1月7日慶喜追討令、同10日容保討伐令を下す。同17日仙台藩主伊達慶邦に会津討伐を下命、同24日米沢・久保田・盛岡各藩主(この時期佐竹藩は久保田藩と公称)に会津討伐応援の指令が出、2月9日総裁有栖川宮熾仁親王東征大総督となり同15日京都を進発。その前2月12日慶喜は江戸城を出て、上野寛永寺に謹慎している。
 
 この戊辰戦争のシナリオは、まず最初から奥州戦争ありきであった。戦前の維新史でさえ、桂、西郷らが「会津を完全に討伐するためには奥羽ことごとく敵とするを辞せず」と主張する奥羽皆敵論を既に定説としている。2月9日東征大総督府と同時に公表された奥羽鎮撫総督府の構成は、初め総督に沢為量、副総督に醍醐忠敬、参謀が長州品川弥次郎、薩摩黒田了介であった。然し実権を握る2人の参謀が、ともに行政手腕に長じた良識人だったことから、その人事は再検討され、ようやく2月26日に新たに総督九条道孝、副総督沢為量、参謀醍醐忠敬・長州世良修蔵・薩摩大山格之助と発表された。参謀が良識派から蛮勇型の実戦派に入れ代わったのは、背景に指専部の奥州皆敵論がつよく働き、決戦必至の判断があったからに外ならない。
 
 かくして奥羽鎮撫総督府は3月2日薩・長・筑前藩戦士を主軸に京都進発、同19日松島湾東名浜に上陸した。
 
 その上陸直後、折から東名浜に碇泊していた江戸の商船を、参謀は旧幕府方ときめつけその積荷を分捕品として略奪することを命じた。その横暴をまのあたりにし、仙台藩士も領民も唖然としたという。仙台城下藩校養賢堂を本陣としたが、会津討伐の遅れは朝命軽侮であると家老を叱責、藩主に対してまで傲慢な態度をくずさず、しきりに藩士を侮蔑するなど、総督府不信の念が城下にみなぎる有様となった。
 
 さらに4月6日、久保田藩郡奉行川井小六らが、養賢堂において総督に拝謁し、藩主からの天機奉伺の挨拶を述べた。この時初めて参謀より、庄内征討を申し付ける、速やかに討入るべしとの命令書が渡され、旧冬関東見廻役の際薩摩藩邸を砲撃したことがその理由としてあげられた。この突然の命令は、しだいに奥州諸藩につよまりつつあったこの度の征討は薩・長両藩の私謀にして朝旨に非ず、皆その私怨からでたものという見方にさらに油をそそぐ結果となった。
 
 これより先、3月27日仙台軍が出動し、4月7日盛岡藩へは米沢街道より会津に進撃するよう指令があった。よって盛岡藩は4月24日仙台領岩沼へ第一陣到着、第2陣第3陣とあとに続いた。しかしその14日総督府より米沢街道を変更白河口への進軍命令が伝えられ、さらに同27日桑折駅へ到着したところ世良参謀より本宮駅進出の命があり翌28日本宮駅に達した。閏4月11日には庄内征討への転進命令が下り、同21日北田駅まで進んだ。このような再三の作戦変更にも拘わらず、盛岡藩は敏速に対応し総督府より賞讃されたほどであった。
 
 なおこの間において、盛岡藩は鎮撫総督下向にともなう戦乱の拡大を予想し、4月6日南部(中野)吉兵衛に対して両鹿角警衛のため花輪詰を命じ、花輪・毛馬内両通の代官、所給人等は皆その指揮下に入ることを達した。南部吉兵衛は4月27日花輪到着、以後諸士の調練や星場における砲術稽古など防備態勢の強化につとめている。
 
 さらにその頃、会津戦線には全般の形勢を変える重大な転機が訪れていた。会津藩が降伏謝罪を嘆願するに至ったことである。仙台・米沢両藩は嘆願書を総督府に受理させる方策について協議し、総督府の強靭な方針を変えさせるには、仙米2藩だけの添書では効果なく、奥羽列藩の連署をもって提出することを決めた。閏4月11日、白石城に設けられた奥羽列藩会議所に各藩重役が参集し、その同意と署名によって会津藩嘆願署の受理を要請する添願書が作られ、総督府に提出された。事実上白石同盟の成立であった。
 
 しかし嘆願書は世良参謀等の反対により、17日付をもって空しく拒否された。その対応を協議した諸藩は、この上は直接太政官に願出て裁許を乞うほかはないとし、その結果をみるまで会津討伐の行動停止を決め、19日総督府に対し解兵屈を提出することとなった。
 
 同じ19日、世良参謀の密書に奥羽を皆敵とみて逆撃する等暴慢な文言の多いことに、憤激し逆上した仙台藩士によって20日未明福島で同参謀の刺殺される事件が起こった。この時盛岡藩兵は庄内に進軍し七北駅に達していたが、状況の急変に進軍を中止し、他の討庄関係八藩(久保田・津軽・新庄・山形など)と解兵について協議、閏4月22日付で9藩連署の解兵届を総督府に提出し、25日受理された。
 
 一方、奥羽諸藩は再び白石での協議を続け、平和的解決にむけての盟約を結ぶことに決し、5月3日仙台において25藩家老の署名調印が行われた。ここに奥羽列藩同盟が実現し、白石に公議府が設置された。ついで北越6藩も加盟し、31藩による奥羽越列藩同盟となった。
 
 列藩同盟の盟約書は「今度奥羽列藩仙台ニ会議シ、鎮撫総督府ニ告ゲ、以テ盟約、公平正大ノ道ヲ執り心ヲ同ウシ力ヲ協セ、上王室ヲ尊ビ下人民ヲ撫恤シ、皇国ヲ維持シ宸襟ヲ安ンゼント欲ス」との前文と、簡潔な八ヵ条から成り、あくまでも総督を中心に鎮撫の実効を挙げるため列藩行動を共にすることの趣旨であった。すなわち列藩の結束の力をもって薩長の企図する奥羽戦乱を防ぎ、平和裡に王政体制に移行しようとしたもので、以後、同盟こそ真の勤王なりとの信念を生むに至ったのである。勿論佐幕的な言辞など、その条文には一語も入っていない。
 
 その前月、奥羽の事態を憂慮した東征大総督府は、肥前藩前山精一郎を奥羽鎮撫総督府応援参謀に任命し、肥前藩兵753人、小倉藩兵142人を附して仙台へ派遣、窮状の打開を図ることとした。前山参謀は東名浜から仙台に入り、5月3日九条総督と会見した。
 
 この時期において、奥羽鎮撫総督府は自ら孤立、逼塞の状況に陥ったかの如くであった。新庄にあって庄内戦を指揮していた沢副総督は、その膠着状態から脱しようとして、4月29日薩・長兵を率いて新庄を出発し院内から秋田を目指した。5月2日湯沢に到着、しかし久保田藩では薩・長兵を分離帰京させるのでなければ、同盟諸藩の申合せに反するとして副総督の領内滞在を拒否し、やむなく一行は横手・大曲を経て同9日久保田に着き、副総督は明徳館に休憩ののち土崎湊出入役所に宿営した。一行は津軽へ向うことに決し、5月16日大館に入った。同地に滞在し津軽藩と交渉したが、同藩も矢立峠の藩境に立木を切倒してバリケードを作り入境を拒んだので、やむなく27日能代より箱館へ向うとして米代川を舟で能代へ移動した。
 
 この副総督大館滞陣中、鹿角には随従の薩長兵がわが鹿角を押し通って津軽へ向うという風聞がつよまり、一時騒然たる有様を呈した。ともあれこの時点までは、久保田・津軽両藩の列藩同盟支持の姿勢に変わるところがなかった。
 
 一方、仙台で同盟監視下にあった九条総督・醍醐参謀は、応援参謀の佐賀前山清一郎の計略により、南部を経て秋田へ赴き副総督と合流の後海路を帰京するとの口実をもうけ、5月18日仙台を出発し、日数を重ね6月3日盛岡に到着した。九条は本誓寺、醍醐は東顕寺、他の藩兵は北山の各寺院に宿泊し、盛岡藩主南部利剛は朝廷に逆心のないことを述べ、軍資金8千両を献上し礼を尽した。醍醐22日九条24日盛岡から国見峠を経て7月1日久保田に着いた。御用の長持23棹は鹿角を廻り藩徒目付・同心の宰領で28日花輪泊り、翌日久保田へ向っている。
 
 その前後、情勢は大きく変わりつつあった。まず列藩同盟結成以来の仙台・米沢両藩は、事ごとに官軍との対立抗争を深める方向へ進んだ結果、5月28日太政官の示達により仙・米両藩の京都屋敷が没収され、かつ両藩々士の入京が禁ぜられる等の措置を招いたことである。また江戸上野に在った輪王寺宮公現親王(後の北白川宮能久親王)は5月15日彰義隊壊滅後難を奥州に避けられ、会津若松を経て7月2日米沢・白石より仙台に入り、同13日再び白石城に移った。宮は日光宮・一品法親王ともいい、同盟に対し、薩賊は先帝の遺訓に背き専断非行を犯している等の令旨を発し鼓舞するところがあった。
 
 しかし仙・米両藩主導のこのような動きは、ことさらに朝敵色を強め同盟結束本来の趣旨を逸脱するものとして、同盟諸藩の中には深い危惧と反感を抱く向も現われ、同盟の結束は次第にその力を失うに至った。
 
 さて戌辰戦争にとって、決定的な転換点となったのは7月1日という日であった。この日九条総督・醍醐参謀は盛岡から、沢副総督は能代から秋田城下に到着し、大山・前山参謀等を加え、4ケ月ぶりの会同を遂げることとなった。翌2日、会議所を明徳館に開き、直ちに軍議に入り、討庄、討仙・米の議を一決、藩主佐竹義尭もこれに同意した。しかし藩内はなお動揺し、藩論一定に手間どっていた。同日仙台藩使者志茂又左衛門等が登城、列藩同盟厳守と総督府3卿の仙台引渡しを要求した。
 
 4日午後4時頃より翌5日早朝にかけ、砲術所有志34人が仙台使者を宿所そのほかに襲い、6人を殺し3人を捕縛、首級は5丁目橋の傍らに梟首した。この時南部使者毛馬内九左衛門の従兵高橋惣助が驚き逃げんとして誤殺された。その日、殿中での軍議が終わるや、各軍将に出兵の命が下り、5日、出軍の準備を整え、各軍は6・7両日のうちに久保田を出撃した。
 
 かくてここに久保田藩は奥羽列藩同盟離脱を明らかにし、討庄命令に従う旨を天下に表明したのであった。
 
3、盛岡藩、混迷深まる
 
 盛岡藩は、会津討伐軍の解兵以来、同盟側か総督府側かの藩論が一定せず、同盟諸藩からもその去就について疑惑をもたれていた。
 
 5月末、仙台を脱出しようやく盛岡領に入った鎮撫軍の醍醐参謀は、相去の関門に達すると南部の老臣が兵を率い迎えてくれ、始めて虎口を脱する思いがしたとその手記に述べ、前山参謀も、盛岡領に入るとどの高札場にも新たな太政官の布告書を掲示してあるのを見て、虎口を脱する思いがしたと、同様の感想を語りその記録に残している。九条総督を盛岡本誓寺の宿陣にしばしば訪ねた藩主南部利剛もまた、朝廷に異心のないことを再三明らかにしていたのである。7月に入り、鎮撫総督府を迎えた久保田藩の同盟脱退と庄内藩征討の奉命はもはや確定的となった。盛岡藩には、藩がさきに九条総督の秋田転陣に随徒させた藩士遠山礼蔵から、久保田藩への援兵を急ぎ出すべきであるとの通報がしきりに届いていた。総督府からは久保田藩を援護して庄内を討伐すべしとの命が届き、一方仙台藩からは久保田藩離反に対する報復同調を求める使者が来、かつ藩境に示威的な銃隊を配置して速やかに秋田攻撃を表明するよう追っていた。藩は、7月3日盛岡城内菊の間において重臣会議を開き、藩の最終方針について協議したが、意見が分れ決定できなかった。苦境に立った上席家老南部監物(大湯北氏)は、鎮撫総督府再度の出兵催促に秋田応援の銃隊二小隊を雫石に送り当面を糊塗するとともに、かねて京都に派遣していた家老楢山佐渡の帰藩をまって、野田丹後・安宅正路・石亀左司馬等蟄居中の東次郎周辺の勤王論者の主張を押え、藩論を一決しようと図った。
 
 楢山佐渡はこの年3月上京、京都警備の任を帯びるとともに中央の情報収集につとめていた。楢山家は代々家老職をつとめる名門、佐渡の父帯刀の妹すなわち佐渡の叔母は藩主利剛の生母、因みに利剛夫人は水戸徳川斉昭の娘、慶喜の姉明子である。佐渡十五歳でお側役、文武両道に秀で20歳戸田一心流免許皆伝、22歳家老就任、藩内の信望厚く時に38歳。折目正しく礼節を尊び、謹厳実直、その正義感と強い武士道意識は、時代の転換期において、とりわけ表裏・駆け引きの多い政治の舞台ではかえって障害となり、あらぬ方向へ走らせることとなる。
 
 京都滞在のうちに、楢山佐渡の胸中には、新政府に対する懐疑的かつ失望的な見方が、とめどもなく広がっていた。幕府に代わり新政府の主導力となった薩摩藩など下級武士たちの権柄ずくな粗暴の振舞や、京洛の不穏な治安状態を見るにつけ、理不尽な西南諸藩にこれからの国政を任せてよいものだろうかと、疑念と不信感が湧き上るばかりだった。
 
 佐渡に随行していた勤王派の用人目時隆之進・目付中島源蔵が、佐渡の「同盟こそが真の勤王である」とする所信を覆すべく、必死の諌言忠告を呈したものの、その意志は微動だもしなかった。6月に入り目時隆之進はついに脱走して長州屋敷に身を投ずるに至り、同月8日佐渡帰国の乗船直前中島源蔵は大坂の旅宿において諌言の血書を残して自殺した。それでも微動だにしない佐渡の信念は何によって生じたものか、プレーンとしての作人館教授江幡五郎の影響か、それとも同盟の理論指導者仙台藩大槻磐渓・米沢藩雲井龍雄等と共鳴するものがあったのか。
 
 海路仙台に着いた楢山佐渡は、仙台藩家老但木土佐と会談ののち、7月16日盛岡到着、直ちに登城して御前会議に臨み、信念をもって異論を封じ、断然同盟に同調の上秋田へ攻め入るべしとの結論に導き、ここに藩論の決定をみたのであった。
 
 藩境の鹿角には、17日夜から早くも花輪へ銃隊人数が到着、19日以降給人による土深井詰、十文字詰などの番割も行われている。
 
 非常の配備が急速に進むなか、司令楢山佐渡・向井蔵人は主力部隊を率いて7月27日盛岡を進発、8月1日花輪到着、代官所にて南部吉兵衛と協議ののち毛馬内給人石川貢宅に宿陣、翌2日より給人高橋七兵衛宅を借上げ軍事局とし、連日作戦会議が続けられた。
 
4、破局、鹿角口の戦
 
 8月7日、楢山佐渡本隊は毛馬内より花輪へ移動し、土深井口からの進撃態勢に入った。8日夜、花輪代官所へ銃隊人数、農兵、またぎに至るまで全員集合、出陣諸心得申渡ののち一斉に繰出した。楢山本隊は十文字道を経て土深井へ、石亀左司馬隊は三ツ矢沢の下新田をめざした。一方毛馬内の向井蔵人・桜庭祐橘等の諸隊は、9日丑の刻(午前2時頃)二の丸代官所前に勢揃い、申渡しを受けたのち全員白根(小真木)へ向かって進発した。
 
 盛岡藩の鹿角口秋田討入の部隊編成は
○十二所口 先鋒花輪隊1番手200人(所給人・与力・同心・またぎ・農兵)、剣鎗昭武隊1小隊、銕炮発機隊3小隊、銕炮同心鳥蛇隊1小隊、楢山佐渡手勢 計550人余
○別所口 先鋒花輪隊2番手150余、新番組石亀左司馬・渡部萬治地儀隊 計203人
○葛原口 嚮導ほか毛馬内給人以下100余人、昭武隊、発機隊、鳥蛇隊、大砲隊、向井蔵人手勢373人 御番組頭桜庭祐橘天象隊および桜庭手勢234人 計612人
○新沢口 足沢内記・三浦五郎左衞門手331人(足沢隊は地儀隊40人余、津軽押え兼新沢口応援隊)
○後 備 津軽押え 南部監物手勢家士42人、農兵100人余
     花輪堅め(十二所駐屯) 南部吉兵衛手勢260人余
○大葛口 雫石より転進、高野恵吉預り発機隊・方円隊各1小隊凡そ200人、花輪隊3番手(長内黒沢詰)
と、それぞれ手筈を固めての行動開始となった。
 
 9日、正面の攻撃目標である十二所に対し、楢山本隊と花輪1番手は本道から、石亀左司馬の地儀隊と花輪2番手は別所口から、向井・桜庭の各隊および毛馬内給人隊・桜場手勢は葛原口から攻撃を加え、戦闘3時間にして十二所茂木隊は撤退し一挙に早口まで退いた。
 
 翌10日、佐渡は花輪へ使者を出して南部吉兵衛に十二所の警備を要請、本隊は附近の残敵掃討に当たったが、正午より大雨となり士卒を休養させた。佐渡の吉兵衛宛11日付き書翰には、「庄内、仙台の軍は久保田城近くまで攻め寄せた由、遅れては御申訳もこれ無き故、我らは即刻進軍するので、十二所の警衛を引受けてほしい」と認められていた。ここに、鹿角から進発の南部軍は速やかに南下を図り、北上しつつある庄内軍・仙台軍と久保田城下で合流を果たすことが、佐渡の作戦計画の眼目であったことを読みとれるのである。しかしその後の進軍速度が大幅に遅れ、総督府援軍の進出を許したのは、思わぬ誤算が重なったからである。その誤算の一つが降雨で、またぎの動員までも必要とした旧式銃による銃撃戦では、雨天の日は戦闘停止にせざるを得なかった。
 
 つぎの誤算は、作戦上の蹉趺である。11日扇田に進駐した佐渡本隊と花輪隊1番手は、村役人の歓待に尋常ならざるものを感じ急拠神明堂に本陣を移したものの、態勢の整わぬうちに敵の猛烈な夜襲を受け、思わぬ損害を蒙ったことである。12日にかけて討死13名、内花輪関村(内田)大蔵ら戦士6名、花輪通のまたぎ卒7名で、ほかに手負の者も多く、南部総勢十二所へ引き、進軍は一時足踏みとなった。
 
 13日昼時、さらに南部全軍は十二所引揚げ、沢尻・土深井まで退き佐渡は土深井に宿陣した。そのわけはもう一方のつまずき、新沢口の足沢・三浦隊が大館近郊鬼ケ城の争奪戦に敗れたことにあった。この敗戦によって、大館勢が守備隊の出払った鹿角へ侵入してくるかも知れない、南部軍の後方へ出て退路を断つか、包囲作戦にでることも予想される。やむなく全軍領内へ引き、秋田進攻は振り出しに戻った。
 
 17日夜、再び秋田進攻の命が下った。18日、主力の楢山隊は本道を、向井隊は山の手を進んだが、この数日間に増強された秋田勢に大滝で猛烈な迎撃をうけ、またも佐渡隊は土深井まで退き、向井隊は一部を三哲山の下に伏せ、本陣を沢尻に置いた。19日は雨のため滞陣、二転三転の蹉趺が重なった。
 
 20日、早朝から進撃開始、向井隊は山の手を、楢山隊は本道をひた押しに進んだ。善知鳥坂の戦に破れた秋田勢は、扇田神明堂に拠り頑強に抵抗した。桜庭隊は中山村の敵を撃破し川向いから猛射を浴せた。町の下手からあがった火の手は忽ち燃え広がり、扇田400戸の内類焼を免れたのは徳栄寺、寂光院ほか僅か6戸だけという。去る12日払暁の奇襲は村人の密告によるとし、かつ8日間の進撃遅滞となったことへの苛立ちと報復の意識が一部にあったかも知れない。
 
 この時期、南から進攻の同盟側庄内・仙台軍の戦果が上り、8月5日既に雄勝郡を制圧し、同11日庄内軍により横手城が陥落した。13日角間川の激戦を制し、神宮寺にも迫る勢いをみせていた。
 
 21日朝、南部軍は扇田攻略の余勢をかり、大館城攻撃に移った。桜庭隊は、山館村の砲隊陣地を撃破、向井隊とともに山王台の敵陣と砲撃戦を展開、米代川河原に野陣を張ったのち、翌22日午前2時全員繰出し山王台への夜討ちを決行した。激しい砲戦ののち白兵戦に移ったが、当日風強く市中は火の海と化し、大手門・東門から人やぐらを築いて城内に突入した。かくて当面の目標であった大館城を占領した。
 
 この日、楢山佐渡は敵伏兵に阻まれて総攻撃に遅れたが、城内を見分し部署を定めたのち、向井・桜庭両将を占領地処理に残し、自身は直ちに追撃戦に移っている。しかし佐渡が大館からそれ程遠くない坊沢まで進出し本陣を据えたのが25日、なぜこの間の速度が鈍らざるを得なかったのか。戦記は、その翌26日盛岡から来援の風雲隊が到着、佐渡は待ち兼ねたかの如くこの2小隊を鷹巣・米内沢に派遣して側面を堅め、27日を期し小繋の秋田勢に総攻撃をかけるため今泉へ軍を進めたと記している。思うに佐渡は、阿仁方面からの敵が横撃や退路遮断にでる危険を感じながら、兵力の不足に悩んでいた。先に述べたこの戦いの蹉趺のもう一つの原因は、盛岡からの援軍の不充分と遅れにあったように思われる。藩内には、前線の兵力増強に遅疑逡巡する勢力が、なお根づよく存在していたもののようである。
 
 そのわずかな蹉趺みが、遂に敗北という重大局面を招くことになった。27日早朝、佐賀藩田村乾太左衛門が北部戦線総隊長として荷上場に姿を現わし、この地勢は秋田への咽喉というべき要害、敵もし占領すれば容易に城下へ迫り、我勝てば敵は前進を断念するだろう、勝敗はただこの山に在りと、全軍を鼓舞したという。この日、南部軍の一隊は今泉に進み更に小繋を衝こうとし、敵と左右の高地に分れ砲戦を交え激闘四時間で双方引き、他の一隊は間道を通って大沢村を襲い火を放った。
 翌28日、佐賀・小城藩の応援隊全員が荷上場に到着、南部軍も大館や長走からまわった増援隊を加え、互に攻撃準備を整え対峙した。
 
 29日、楢山軍と佐賀・小城軍の初会戦は、激しい砲戦に始まったと伝えられる。毛馬内田中北領筆の戦争図絵のなかに「小繋撃合」図として、手前のおそらく北側高陣場山の山頂に砲列を布いた南部砲兵隊が、米代川の対岸七座山の敵砲隊ともうもうたる砲煙に包まれながら撃ち合っている情景を描いている。今でも小繋地区の住民の間には、南部の大砲はこちらの陣地にあまり命中せず、こちら官軍の新式大砲は敵陣に一発々々正確に命中し、南部はたまらず逃げだしたとの話が語られている。彼我の装備する銃砲の新旧、優劣が即勝敗を決する象徴的な戦いとなった。南部軍は数日の差で機を逸したというべく、ここで形勢が逆転し、米内沢方面から迂回の佐賀兵・十二所兵および大沢間道から坊沢をめざす大館兵に退格を絶たれる危険を避け、今泉・前山・坊沢・綴子を次々に放棄し、川口まで後退し本陣を置いた。
 
 9月1日、風雨のため双方休兵。2日、楢山隊は岩瀬へ出撃、始め優勢のうちに戦うも、午後新式装備の官軍の前に支えきれず大館片山まで後退した。この日対岸板沢に布陣した桜庭隊は、米内沢方面から貝吹長根を越えた佐賀兵・十二所兵の奇襲により手痛い損害を受けた。戦死者十三名のうち八名が毛馬内桜庭家中とその従僕らで、その中には時勢論と上奏文を懐中にした尊王派熊谷助右衛門も含まれていた。
 3日は大雨で休戦、4日未明から南部軍は総攻撃を展開したが、午後次第に敗色を濃くし、大館放棄も止むを得ない状況となった。加えて官軍は扇田から十二所へ進出し、南部軍の退路を断つ構えをみせた。南部軍は5日夜から6日早朝へかけ、新沢口を退路に定め無事撤退を完了した。一先ず楢山佐渡は松山、向井蔵人は瀬田石に本陣を置いた。
 
 7日、南部吉兵衛隊大滝、軽井沢にて合戦の後十二所にて更に砲戦、楢山隊の応援も空しく十二所を奪われ、佐渡沢尻に宿陣す。
 
 11日。石淵にて砲戦・12日、石淵長根、籠谷にて敵と交戦す。この日盛岡より3小隊花輪へ到着。13日、大風雨の中袈裟掛口の敵と砲戦あり。15日、向井蔵人隊陣場平、籠谷、日暮長根、袈裟掛下林の口、月山口にそれぞれ配備の上、各隊一斉に進撃して石淵長根の敵を追払う。一方楢山佐渡隊は三哲山上はじめ川向葛原、本道より砲発して十二所を激しく攻撃、日没のため引揚沢尻に滞陣。この夜薬師森が敵に占領され、毛馬内市中が脅威にさらされることとなった。
 
16日、黒岩・納豆沢にて打合あり。十二所の敵陣より砲発をうけ、佐渡勢繰出し砲戦を交し、夜に入り人数を退く。17日、松森方面での打合続き、葛原口にても戦闘行われる。
 
 17日、葛原の銃隊敵の来襲をうけ白根に退く。桜庭隊赤沢夜襲の企てを中止のところ、月山警備隊が沢尻の戦火を赤沢夜襲と誤認し、急ぎ薬師森に攻め上り遂にこれを乗取る。同じくこの夜沢尻の佐渡宿陣が敵の夜討によって出火、佐渡進んで十二所へ向け繰出したるところ三哲山・葛原口からの砲撃激しくやがて土深井まで退いた。
 
 20日未明、盛岡から藩主の直筆書を持って、急使野田丹後が到着した。18日京都から帰藩した三戸式部の携える朝廷からの帰順内命書に基づくもので、あわせてその情報は列藩同盟軍が越後・白河など詰所に敗退して三春・米沢藩など既に降伏、9月15日仙台藩降伏、16日庄内藩も降伏決定、その夜から久保田城12キロの地点まで進攻した庄内軍の撤退が行われ、会津藩降伏も決定的、交戦状態にあるのはひとり盛岡藩のみという驚愕すべきものであった。楢山・向井の両将は直ちに秋田陣営に対し、停戦申入書を送った。ここに40日間におよんだ戦闘行動は結局郡内に敵の一兵も入れることなく終息をみたのである。
 
 9月20日は、現行の太陽暦では11月4日に当たる。戦記は9月4日山に降雪をみ、9日夜雪降り、その前後連日大霜と記し戦場はまさに寂寞とした冬枯れの季節を迎えていた。
 
 21日、秋田藩の返書に、領内侵入の南部諸隊全員を藩境内に撤収ののちに十二所に於て応接するとあり、22日より諸口の番屋撤収と兵の引揚げが行われ、速やかな完了をみた。
 
 25日、家老三戸式部は降伏歎願のため、官軍十二所本陣の応接所に出頭した。謝罪の実効として、総督府へ世子彦太郎を出府させること、藩主を城外に閉居させ、銃器を残らず差出し、家中諸士を堅く謹慎させることの条件が提示され、正式に停戦協定が成立した。
 
 この日、協定を無視して弘前藩兵の濁川焼打という思いもかけぬ事件がおこったが、これは全くひとり津軽藩の汚点というべきである。
 
 27日以降、盛岡派遣の諸隊は次々と帰還、鹿角を去った。
 
 10月に入り、鹿角へ鍋島、小城、久保田、弘前藩など官軍が続々と進駐してきた。盛岡入城前後の数日であったが、宿営地となった花輪・毛馬内は混雑をきわめた。盛岡城の開城は10月10日に行われ、事無く城地引渡しを終えた。同14日総督令を携えた沢主水正による正式入城、15日諸軍へ凱旋命令、続々とその帰還が始まった。16日付総督府指令により久保田藩が盛岡藩の武器弾薬悉く引取ることとなった。
 
5、鹿角の動揺と憂欝
 
 戊辰戦争鹿角口の戦は、40日間の戦闘で終わった。しかしその限られた日数にも拘わらず、敵・味方の立場を越えた深い傷痕があとあとまで残ることになった。人それぞれの怨念を離れて、地域全体としての鹿角の苦悩について幾つかあげてみたい。
 
 まず明治2年5月以降の鹿角郡内には、武士が一人も居なくなったことである。戊辰戦争の結果南部藩は、領地没収、朝廷直轄地とされた後、旧仙台領白石へ13万石に減禄の上国替を命ぜられた。藩主はやむなく多くの家臣に御暇を申し渡すこととなり、花輪・毛馬内の所給人には5月中旬全員御暇の上帰農・帰商すべきことを達した。同じ頃花輪南部吉兵衛・大湯南部伊豫(監物)、毛馬内桜庭祐橘の各家中に対しても夫々永の御暇・帰農帰商が言い渡された。この時点で、鹿角中に帯刀の者一人もいないという異様な状態となった。のちの4年5月戸籍編成の際旧士分層すべて平民籍に編入となり、当然金禄公債・秩禄処分も一切無く、ようやく士族復籍の許可されたのは明治30年以降のことであった。
 
 つぎに、めまぐるしい管轄県の変遷があった。戊辰戦後11月14日盛岡城内に久保田藩士を公裁司とした南部表鎮撫行政司庁が設けられ、鹿角もその管下に入った。この鎮撫行政司庁は、1月15日会計官権判事林友幸の着任とともに解散となる。さきに盛岡旧領の取締を命ぜられていた松代・松本・黒羽三藩のうち、松代藩小幡内膳一行が5月8日ようやく到着、小幡は盛岡県権知県事として鹿角・岩手・紫波その他の地域を取締ることとなった。8月7日、南部利恭がさきに白石から盛岡旧領復帰を許されたことに伴い、新たに九戸県の置県となり、鹿角・九戸・二戸・三戸・北郡をその管下においた。その後わずか一カ月程の9月13日に八戸県と改称、さらに数日後の9月19日三戸県に変わったのは、八戸藩との混同を避けたいとも役所が三戸にあったからともいい、更に70日後には会津の斗南藩三万石新設のため三戸県廃県、鹿角は二戸・九戸とともに11月江刺県に合併された。明治2年の僅か1年未満にして、久保田藩治下から朝廷直轄、盛岡県、九戸県、八戸県、三戸県、江刺県と流転した甚だしき朝令暮改を、鹿角の人々は戊辰戦争に因る懲罰的措置とうけとめたのである。
 
 明治3年の鹿角の窮乏と治安については、江刺県花輪支庁詰附属として勤務した田中正造の日記に詳しい。2年(巳年)の凶作をうけて村々の疲弊困窮は底をつき、不平士族がけっき蹶起して花輪支庁を襲うという情報に、官員等狼狼し腰弁当に刀鎗を携えて庁内に籠ること前後2回におよんだが、いずれも風聞だけで終わったと記している。
 
 江刺県などこれまでの県は、官軍藩出身の施政官のもとながら、良きにつけ悪しきにつけ同県民すべて旧南部領民であった。そのある種の安堵感が、4年12月2日を境に足元の崩れるように拠り所を失うことになった。鹿角郡は政府の三陸両羽廃置県の布告により、江刺廃県、秋田県編入を決定されたのである。この措置は、鹿角の人々に深刻な思いをもたらした。鎌倉以来800年陸奥国側に属し、その風土伝承習俗の中に生きてきて、つい数年前戊辰戦争で敵味方に分かれ、心ならずも今は賊名を負ったまま、独り出羽国側の秋田県に編入される。少なからざる心の痛み、憂い、違和感を覚えたのは当然のことと思われる。
 
 4年に入って尾去沢銅山を経営していた盛岡鍵屋茂兵衛が、旧藩が借用した外債の償還事件にまきこまれ、不幸にも破産に追い込まれた。5年大蔵省が調査にのり出したが、担当官は鍵屋側の主張を一切とり上げず、錮山は大蔵省に没収された。その指揮をとったのが大蔵大輔井上馨で、井上は11月銅山を岡田平蔵に不当に有利な条件で払い下げ、かつ6年8月井上は岡田を伴い尾去沢を見分し、井上所有と思わせるような標柱を立て布告を行った。時の司法卿江藤新平が一連の井上の行動に疑惑をもち、疑獄事件として捜査するに至り、朝野の耳目を聳動させる重大事件へと発展した。鹿角の人々は、当然地元銅山を舞台とする司法の行方に関心をもち、薩長政府高官の醜悪な一面に不信の念を燃やすこととなった。
 
 10年には、西南戦争と呼応する真田太古事件が起こり、武装蜂起を企画した疑いで毛馬内旧士分層31名が国事犯として検挙されるなど、なお暗雲が低くたれこめていた。23にして、県庁文書にある如く、花輪警察署長に対し、岩手県へ管轄替を要望する風説あり陰密偵知の上内報せよと命じるなど、鹿角にとっての不幸な出来事が尾を引いていく。
 
6、おわりに
 戌辰戦争。廃藩置県後の秋田県にとって、鹿角は新附の郡県治の郡として、旧来の6郡とやゝ間を置いたことは、人情の趣くところ是非もないことと思われる。ただその不調和音を故意に高めたのは、昭和に入ってから一段と強められた忠君愛国教育であり、昭和5年制定の秋田県民歌第三番であった。錦旗を護りし誉の秋田を際立たせるため、南部賊軍・南部の火つけという表現が対象的に強調され、鹿角にとって暗い時期の続いたことは、残念なことでもあった。
 
 時代は進み、いま新たな歴史観のもとに、戊辰戦争の真相が明らかにされ、もはや盛岡藩をふくめ同盟諸藩を賊軍呼ばわりする史論は影をひそめるに至った。むしろ秋田県民歌第三番を県民手帳にまで掲げて復活を計る本県(秋田県)の姿は、客観的にみてむしろ異常に映るに違いない。のみならず県の歴史意識ひいては文化行政さえ問われ兼ねない。私たちはすみゃかにその撤回を実現させ、いわれなき賊名を負うて散った戊辰戦士に捧げる鎮魂の譜に替えなければならない。
 
 


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