浄円寺の孝養太子像
梅原 廉

 
 大迫町亀ケ森にある浄円寺は、山号を亀通山といい、浄土真宗の寺院である。天正二年
(一五七四)三月十五日に浄円によって開かれたと伝えられている。文化二年(一八0五)に祝融に遭い堂宇・什物が、悉く灰燼に帰したという。現在、山門の向かって左側に亭亭と聳え立つ松樹は、優に二百年の樹齢を誇り、境内の「オンコ」の木もまた松樹に劣らぬ齢を見せて見事である。
現在の本堂は、十世円証の代の文政五年(一八二二)に再建されたもので、向拝の虹梁
の彫刻は傑出した出来で、しかるべき名匠の作と見られるものである。寺域は清浄閑雅の気韻に包まれており、聖徳太子を教主と仰ぐ、親鸞上人以来の浄土真宗の心が息づいている。大迫町にある寺院は、大迫氏の桂林寺、亀ケ森氏の中興寺、衣更着氏の妙琳寺というように、旧豪族との関わりを持つ寺院が多い中で、浄円寺は庶民のお寺として極楽浄土を念願して、庶民とともに歩んできたお寺である。それは、「孝養太子像」に象徴されていると云える。
浄円寺に伝世している「孝養太子像」は、ヒノキ材寄木造り漆箔像の美麗な尊像で、江
戸中期の典型的・本格的な彫像である。全高八一センチ、像高六一センチ、肩幅一五センチ、肘張りニニセンチ、裾張り二三・五センチの像である。張りのある豊かな像容と衣裳に施された文様の蒔絵は洗練されており、入念な作り込みとなっている。太子像にはいろいろあるが、このように柄香炉を奉持するお姿のものを「孝養太子像」と呼んでいる。  太子信仰は、「まいりの仏」という庶民信仰のなかでも生きており、木像のものとしては、嘉慶三年(一三八九)の年紀のある北上市口内の菅野家のものが最も古く、年紀はないが、室町時代のものとみられるものに盛岡の千手院のものがある。「まいりの仏」として個人が所有して奉祀しているのは画像が多く、「阿弥陀如来」・「六字名号」と共に、「孝養太子」・「黒駒太子」の画像が懸架(ケンカ、つり下げる)されている。現在、「まいりの仏」を所蔵している家は、氏族の総本家が多く、中世領主の系孫・武士の末孫、または「阿弥陀堂」、「太子堂」の別当の家に見られる。寺社の場合は、檀家から納められたものが多い。これは、浄土真宗の寺院が各地に建立されるようになって、自前による接引・引導を必要としなくなったことと関わりがあったと思われる。          浄円寺の「孝養太子像」は、親鸞上人の太子に寄せる信仰、「聖徳太子は日本仏教の教主」という考えから請来されたもので、「まいりの仏」の延長線上のものではない。美麗に荘厳された彫像から、本尊阿弥陀如来とともに現世・来世の浄土を祈願した太子の思いが伝わってくる。まさに江戸中期の典型的な「孝養太子像」である。
 
 
 


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