56 津軽家偽系


本当は史実に近いか「津軽家偽系図」 190121



 
一、津軽家偽系  

  津軽一統志、津軽家の偽書にして正史に非ず、徒(いたずら)に考校なして贅す、本藩正史と合わせ考えなすべし
 
    津軽系譜

南部 三男
○某 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
   幼名彦六郎、後右京亮、又信濃守 下久慈に居住 金澤を号し、仙北に卒す    ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗某 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
   初金澤若君 右京亮、下久慈に居住 同所にて卒す               ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗光信 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
   右京亮、初津軽鼻和郡を賜ひ、大浦に入部す、大永六丙戌年卒。種市(註種里の  ┃
   誤りヵ)十月八日 功樹院長勝隆栄大居士と号す、太平山長勝寺に葬むる     ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣盛信 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃  右京亮、天文七戊戌年九月廿六日卒す、前信州領山源統             ┃
┗某  伊豆守 兼平氏祖                             ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣為則 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┗信公 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓┃
   紀伊守 堀越に居す                            ┃┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛┃
┣為信                                      ┃
┃  伯父為則無嗣子で死す、為則の嗣子となる、時に永禄十丁卯年三月十八日十八歳  ┃
┃  養なわれる                                 ┃
┗女子                                      ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣為信 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃  実は信公男 右京 後右京大夫、初久慈久次郎                 ┃
┣女子  養子為信室                               ┃
┗女子  横田弾正室                               ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣信建  早世
┃   宮内大夫、慶長十二年十月三日京師に死去、勝利義隆大禅定門と号す
┗信牧 
   越中守
   慶長十二年信建死して 同年十一月廿三日亡父為信の遺領を賜ふ

  南部十八代彦次郎時政次男久慈与三郎信実三男彦六郎、父信実の家を相続して下久慈を知行せしものなるべし、なお追って考えべし。

  一説に光信の祖父を右京と号し、なおもって南部の支流となす。羽州仙北金澤城に居し、国人背きまた城を攻める、なおもって自殺す。家臣幼子を抱えて滴石の難所を越えて南部に来りと言う。この説これにあらずヵ天正中、為信世来よりの南部領津軽三郡を横領し、姓を改め藤原となす。割菱紋を改め茗荷丸となす。後、近衛家より牡丹丸を、文禄二(一五九三)癸巳年三月伏見に上り、秀吉公に謁し津軽三郡ならびに合浦賜わり、これ御朱印を下賜さる。慶長十二(一六〇七)丁未年十二月五日京都にて卒す、瑞祥院殿天空養公大居士と号す。津軽山革秀寺に葬る。行年五十八。


 

 【解説】

 
 ここにある記録は冒頭に偽系図とかかげる系図だが、南部家の歴史観に基づく「戦国末期津軽に叛旗を翻し、津軽三郡(鼻和・田舎・平賀)を横領。南部家から独立を勝ち取った怨念の敵・津軽家の系図」であることには違いない。しかし、編者の津軽氏観は「南部氏の庶流説に対して肯定・否定は知る由もないが、この偽系図は弘前藩の正史である『津軽一統志』によるとしており、総じて見れば、案外史実に近いものではないかというのが偽らざる私見である。

  その論拠は、『津軽一統志』の視点は限りなく南部家という呪縛からの解放であり、偽系図とされる部分は、中でも触れたくない南部氏庶流であることが記載されている高屋家文書の記録。近年、刊行された『津軽家文書抄』『青森県史・資料編中世2』等によれば、始祖に関心を寄せ、高屋家文書にある久慈氏・金沢氏にこだわりながらも、自己矛盾を感じつつ藤原近衛庶流説へ傾斜していく過程が彷佛される。

   ■ 『津軽一統志』の南部氏庶流説

  寛永十八(一六四一)年に津軽家が幕府に上呈した津軽系図は『寛永諸家系図伝』に収められ伝存するが、藤原氏支流とし、藩祖津軽為信の祖父政信の譜に「家伝の曰く。近衛殿後法成寺尚通の猶子となる。この故に藤氏と称す。いまだその実父つまびらかならず。天文十(一五四一)年五月九日に死す」としてそれ以前は不明としている。従って津軽家の正史は現在に至るまで藤原姓であることを伝えている。

  しかし、領内には厳然として藤姓を否定する空気が存在していた。後年、正史『津軽一統志』が編纂されるに際し、附録とはいえ高屋文書「南部屋形様御先祖次第」を組み込まざるを得なかった背景が垣間見える。

  同説は初代を南部屋形様御三男金沢右京亮。二代南部右京亮。高屋氏の先祖大曲和泉守が守護して(出羽・仙北より)久慈に移り、同所で死去。三代京兆亮光信は津軽鼻和郡を知行して大浦に移住、種里にて死去。その跡を四代右京亮盛信、五代右京亮政信、六代右京亮為則と相続。七代が為信。津軽統一の後藤原姓に改めたとするもの。

  津軽家旧蔵文書の中に二通の後花園天皇口宣案二通が伝存する。同説を傍証するものとされてきたが、近年刊行された『青森県史』は後世の偽書とした(資料編中世2四八二頁)。

   ■ 南部領に伝わる津軽為信先祖の所伝。

  実は、津軽氏は南部氏庶流とする説は南部領よりも、津軽領内に根強くある。かつ公然の秘密として語られていたようである。しかし、この系図は『津軽一統志』所収説に基づき作成したと付言するが、むしろ南部領内に散見する諸説と同類のもの。

  ちなみに本文にある「南部十八代彦次郎時政の次男久慈与三郎信実」は、筆者所蔵の南部系図では時政の二孫にして十九代彦次郎通継の二男に作り、九戸郡久慈村を領すとある。

  『参考諸家系図』巻八「久慈系図」は十五代与次郎助政の二男。別名を久慈備前守に作る。譜には「久慈大川目に館を築いてこれに居し、久慈村に卒す」と見え、その孫備前政継の譜には「出羽平賀郡大曲郡代を勤め堺合戦の時に討死」。その孫備前守治義の嫡子を三河守信義。二男平蔵は後に大浦右京を名乗り、後の津軽越中守為信であると伝える。その他諸説あるが割愛する。信義の妻は九戸康連の娘と伝え、その子は天正十九年九戸城に篭城。従兄九戸政実と命運を共にした備前守直治である。蛇足のついでに、『奥南落穂集』によれば、九戸籠城の中に為信の二弟五郎左衛門信勝の二男大浦主殿助勝建の氏名が散見する。

   ■ 史実であった津軽氏の南部氏庶流説

  これまで藩はかたくなに南部氏庶流を否定して来たが、『弘前市史』『津軽家文書抄』等により、津軽家旧蔵文書類(国文学研究資料館所蔵)が公刊され、十二月二十四日(天正十七年か)付南部右京亮宛豊臣秀吉朱印状ほか、織田信雄書状・豊臣秀次書状等が伝存。為信は南部氏を称していたことが晴天白日の下に公開せられた。

   ■ 中身が変転する津軽氏の藤原姓説

  津軽氏系図『御系譜』は南部家十三代大膳大夫守行の三男彦六郎則信を初代に作り、譜の余白に「金沢と御名乗有るとは非なり」と付記。五代大浦政信の譜に「実は近衛公の御胤にてこれより津軽家系、累代近衛家の流裔となる」とある。為信は七代として散見する。

  『津軽先祖系図』も政信の譜を境に源氏から藤原朝臣と変わる。可足権僧正(弘前藩三代信義十一男)の筆記之写によれば、高屋文書を否定した上で平泉藤原基衡の二男秀栄を鼻祖とし、末裔則信の代に至り南部氏の血流金沢右京亮家光が姉婿となり、かつ後見として実権を握り、その孫女が則信の孫光信の室となる系図を示している。その曾孫に為則があり、為信の父である。

  津軽家には近衛家歴代当主が津軽家の求めに応じて代々加筆した『津軽家之系図』が公式系図として伝存(『青森県史・資料編中世2』)している由。

  津軽家歴代当主は家督後に近衛家を訪問し、『津軽家之系図』に加筆を依頼することが重要な仕来りであったと言う。明治政府に対し高屋家文書を否定する書翰写が『津軽家文書抄』に散見する。南部家の呪縛から逃れようと葛藤するが、逃げ切れずにいる姿が沸々と見えてくる。


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