47 常府刀指江川善兵衛捨子を拾う

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 江戸常府刀指江川善兵衛、麻布御屋敷の掃除奉行を勤む。延享元(一七四四)年御門前に捨子を拾い取り、金子十両これある趣き御披露つかまつり候えば、金子は善兵衛に下し置かせられ、右の男子は養育し名跡につかまつり候よう仰せ付けらる。しかるところ、善兵衛不調法にて相続成りかね、渇命におよび候に付き、右の拾い子を新組御同心神尾平右衛門に養育仰せ付けられ、その後善兵衛の身帯三両三人御扶持方を、右の拾い子に直々下し置かせられ、神尾九十郎と改め常府刀指に相成る。善兵衛は御人足部屋に差し置かせられ、炊出食をこれ下さる。
 

 【解説】

 
  出生率の減少が叫ばれて久しいが、近年輪をかけて幼児虐待、わが子の殺害といった暗いニュースが多い。いつの世にあっても子供は宝である。しかし、生活苦・その他、理由はさまざまであろうが、むごい事ながら愛しいわが子を捨てなければならない親は存在した。誠にむごい話だけに、親の心境は計りしれない。

  ここでは、南部家の江戸下屋敷の門前で捨て子を見付けた者と、捨て子として拾われた者の後日談が記述されている。

  今回の事件を意訳するならば、江戸は麻布にある南部家下屋敷(現在は東京都港区有栖川宮記念公園となり、域内に東京都立図書館などがある)に仕え、掃除奉行を勤める江川善兵衛が門前に捨て子があることを発見。捨て子には養育料としてであろう持参金十両が添えられてあった。

  余談ながら江川氏の家禄は三両三人扶持。これを金方に換算すれば六両二歩一朱。江川氏にとって十両は一年半余の収入に匹敵する金額。

  藩は江川氏に対し、その持参金を与え、捨て子の養育を命じたという。しかし、江川氏は後に至り、身代をすり減らし、子供の養育御免を願いでて受理され、御人足部屋に置かれて余生を送った様子だが、子供の里親は新組御同心神尾平右衛門が引き継いだとある。

  従って、子供は神尾氏の里子として成長。後年に至り、神尾九十郎を名乗り、かつての里親江川氏の家禄を継承したという。明和(一七六四?七二)年間の支配帳に「刀指 三両二人扶持・常府神尾十郎」が散見する。本人かあるいは血縁の人物であろう。

  ちなみに江戸常府とは江戸に居住地を有する藩士らをいう。一般には江戸で召し抱えられ、藩邸勤務を命ぜられた藩士及び留守居役は常府であった。従って、留守居役となった藩士は家族共々藩邸内の御小屋(長屋)に転居する慣習であった。つまり、藩士は国元に居住し、江戸藩邸勤務を命ぜられた者の中には二・三年にわたり長期滞在を命ぜられる例もあったが、原則として半年あるいは一年間の単身赴任であった。

  刀指(かたなさし)とは御徒(かち)の下に位し、後世には中使(なかつかい)と改称された下級藩士である。しかし、このたびの捨て子には金十両が添えられていたとあるから、子を捨てた親はそれ相応の身分がある者。少なくとも金銭面での生活苦とはほど遠い理由があっての捨て子であったに違いない。

  『飢饉考』には宝暦の飢饉の様子が生々しく画かれている。「頃日寺社ならびに市中冨家の門口、諸士丁へくも捨子多くあり、最初は銘々拾い上げ、多分の内には育養もあり、米金銭を添えて望む者へ遣す云々」。異常事態の中で金銭を添えての捨て子。推して、たかだかの金額であったに違いはないが、そこには「せめて子供だけでも生きながらえさせてください」といった、親が自分たちの命と引き替えにしている悲痛な心境が透けて来る。

  同書はさらに、これを食い物にする悪党もはびこっていたことを伝える。「后(のち)には人分望みなき者も米銭を貪(むさぼ)らんために、貰い捨子を淵川へ投入、米銭のみを貪るもの多くありて、后には銘々我門に捨られぬ覚悟す。遂には親子の情愛を忘却して父母たる者、自身わが子を野山淵川へ投げ捨て、あるいは昼夜の差別なく小盗大に流行す」。

  しかし、このすさみきった者の姿は、極限の世界での出来事。一方、捨て子ではないが、天保四(一八三三)年の飢饉の時に岩手郡一方井村での話が『塵袋』に見える。

  両親が死没し、残された二人の姉(十三歳)弟(九歳)の話である。けなげに生きる姉弟を村の人たちが、自分たちの明日が見えない中で助け、励ますのだが、最後は力尽きて入水する悲話である。どんな逆境の中でも荒んだ心の人ばかりではなかったと言いたい。

  さて江戸時代において、捨て子する者に対し、法制的にはどのような対処をしたものだろうか。少しばかり立ち入って見ることにする。

  元禄三(一六九〇)年十月に幕府が諸国に布告した「捨て子に関する禁制」が徳川実紀にみえる。これによれば「今日令せられしは、捨て子することいよいよ制禁す。養育なりがたき故あらば、奉公人はその主人。公料(幕府の直轄地)は代官の属史(『御当家令条』には御代官手代)、私領(大名領等)ならびに市井(町方)はその地の里正(検断・村肝入など)、五人組へその故を申すべし。育てがたきにをいては、その地にて養うべし、この上になお捨て子せば、厳敷とがめらるべし」。

  また、後年のものであるが盛岡藩においても、宝暦六(一七五六)年四月の「覚」には「捨て子らこれあり候えは早速手寄せの百姓どもへ引き取らせ、食事等にても相与え置き候ところ、肝入へ相届け訴え出で申すべく候。左候えはば右賄い代は下し置かせられ候、もし見逃し候か不法の致し仕方などこれあり候よし相聞こえ候はば、御吟味の上急度仰せ付けらるべく候。右之通支配所中、よくよく申し含むべく旨仰せ出さる」。

  具体的な事例は管見にないが、極限の状況を伝える『飢饉考』の記述にも共通して散見するのは、幕府の基本理念であった儒教的思想によって育まれた概念であろうか。見付けた者は養育しなければならないことが、社会通念として定着していたらしい。それが履行出来なければ五人組や検断・肝入の出番となる。これを逸脱したときには犯罪となる。

  幕府の法令書である『律令要略』は、特に捨て子をした者への罪科は見えず、むしろ捨て子を見付けた者、あるいは拾い子をした後に重ねて見捨てた者に厳しい処分が待っていた。

  「金子を添えて捨て子を貰い、その子を棄てた者は引き回しの上獄門。ただし切り殺し、あるいは〆殺したものは引き回しの上磔(はりつけ)」である。

  獄門とは牢屋で斬罪にした後、刑場に晒(さら)すもの。磔は刑場で処刑するものである。また、捨て子を見付けた者が、かかわることをいとい、他所へ捨てた場合には「当人は所払い、家主・五人組は過料、名主は江戸払い。ただし取り調べの上、名主・五人組・家主らは全く知らなかった場合は構い無し」とし、これは、盛岡藩で後年に制定した『文化律』「捨子の儀に付御仕置の事」に援用されている。

  「一、金子を添えて捨子を貰い、その子を捨候者は獄門、但し切り殺におゐては引廻しの上磔門」「捨子これあるを内証にて隣町等へ又候て捨候儀出顕せば当人は所払、五人組は過料、肝入は一官所払」と同文で見える。

  実際の判例(『御仕置裁許帳』)は、元禄三年江戸でのこと、生まれたばかりの女児を求めに応じて金一歩二朱を添え養女に出した親があり、後日、養女が行方不明になったところから事件が発覚。取り調べの結果里親が捨て子していたことが判明し江戸十里四方に追放。次も元禄四年江戸の事例だが、捨て子(のち二歳と判明)を見付けた者があり、別の場所に移し捨てたことが判明して伊豆の利嶋へ流罪。その他が見える。ただし、盛岡藩の例は寡聞にして管見にない。

  法制的なことはしょせん門外漢ながら、捨て子した者のせんさくに当たるといった気配はさして感じられないことと、捨て子を見捨てた者が厳罰に処されたこと。および、捨て子する者は、今後に子供を依託する親の気持ちか金銭等を添えることが社会通念であったように窺われる。


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