41 南部根元記 なんぶこんげんき |
著者 獅子内杢 |
【藩主】 盛岡市中央公民館所蔵、南部家旧蔵文書の内。ほかに岩手県立図書館や岩手大学図書館「宮崎文庫」その他に広く流布している。(県図21-4─35)外(盛中22-1─1)外 【史料の概要】 南部家始祖光行にはじまり、天正十九年までの歴史を記述しているが、根元記の根元は「信直を根元とする」の義であり、あくまでも中心は近世南部家中興の祖と称される二十六代信直の伝記(軍記物)である。 【史料批判・雑感】 原本の所在は不明ながら、成立時期については寛永十八年に幕府へ系図一巻を上呈(『寛永諸家系図伝』)と併せて編纂したとする故太田孝太郎の考証(「岩手史学研究」二十九号「南部根元記考」)がある。筆者に付いてこれ迄定かではなかったが、『祐清私記』「様々取集書事」の項に「公方様より被仰付けるは、諸国系図御改之時、重直公指上候は委からず。代々の軍功之次第を記指上可申上意に依て獅子内木工へ被仰付、戦功之次第委細に相記書き上げる」と、獅子内杢則昌であることを伝えている。【著者・著書等】の項参照。その太田説に従えば、今日伝存する写本は二十余種。『信直記』(元禄十年写本・現存する写本中最古)『九戸記』など表題の異なる類本を数えると四十余種に及び、項目立は少ないものは八項、多いものは五十項に及ぶ『増補南部根元記』もあり(同上論文)、記事の内容と項目の順序から分類からすれば、元禄年間には既に四系統の写本がある(同上論文)という。『南部根元記』は「元文二歳五月吉日写之」の奥書がある系統のものが多く、南部叢書本も同系統。外に宝永三年(の奥書ある写本・以下同じ)本、寛保年間本、天明本、寛政本等もこの系統とされている。また『祐清私記』や『聞老遺事』を初め『南部史要』等もこの系統本の影響を受け、従って現在の定説化した「南部信直像」はこの系統に属する説話と言って過言ではない。以下写本系統による異説の二三を紹介する。その一、信直は庶流から入って宗家を相続したと伝えている。同時に姉妹本として編纂されたと想定されている『寛永諸家系図伝』によれば、信直は二十五代晴継に嗣子がなく、その従弟(父晴政と信直の父高信が兄弟の関係)であることから相続したと記録しているのに対し、享保十二年写本(盛中22-1─1)等は「信直公は左衛門尉高信の嫡子にましませば、晴継の御為には従弟と云」とあって右に同じ、天明二年写本(県図24-4─37)は「信直公は左衛門尉高信従弟なり、伯父也、息は姉婿なり」とあって文意不明。類本である元禄十年写本『信直記』(盛中22-1─5))は「信直は左衛門尉高信の嫡子にて、晴政には従弟伯父也、大姉婿也」つまり「従弟伯父」(晴継の父晴政と高信は従弟)、類本の『九戸軍談記』(県図24-4─7)は「高信の御子彦九郎信直は晴政の御為には従弟伯父也」として、晴継には従弟違であることを伝え、総じて見れば、「従弟伯父」とする説は元禄期から出現したことが窺われる。その二、晴継が死去して後、信直がその葬儀を終えて帰城する途次に凶徒に襲われ、川守田館に避難した話は「南部叢書」本『南部根元記』にあり、その他に引用されて周知の事件である。しかし、元文六年写本(県図24-4─36)によれば、この説は「別説」として伝え、本文では信直世子の時代に、義父晴政が鷹狩に事寄せて襲撃した事件と伝えている。因みに『八戸家伝記』(元禄頃の著書)は、信直世子の時に川守田毘沙門堂へ参詣の折り晴政が襲撃したと伝え、『奥南盛風記』には櫛引河内と南遠江合戦の時とする説などもある。なお書名を『南部根元記』と呼ぶもの以外に『奥陽糠部高源記』『向鶴南部軍記』『南部旧記録』『東奥南部由来記』『信直記』『九戸実録』(以上太田論文)の外、『南部信直公事蹟』『貞享記』『九戸本覚』『九戸軍記』『御家秘事記』『吾妻物語』『九戸軍談記』『南部書記』その他が岩手県立図書館、盛岡市中央公民館に所蔵されている。『南部根元記』を引用しているものに『伊達秘鑑』『奥羽永慶軍記』『東奥軍記』(「続群書類従」)等がある。『國史叢書』には「天正南部軍記」があり、項目立てはやや南部叢書本に近いものがある。こと『南部根元記』ではあるが、他の本を併読するか否かは別に置いて、異説があることを頭の隅に置きながら見るのも、また一興である。 【参考】 元文六年写本と「南部叢書本」の目録比較
【刊本】 南部叢書第二冊に収められているほか、平成十六年三月青森県より刊行された『青森県史』資料編 中世1「南部家関係資料」に収録されている。 【著者・著書等】 ■ 著者に関する考察 これまで著者については未詳とされて来た。『祐清私記』によれば、「様々取集書事」の項の七条目に「寛永十八年新羅三郎已来南部系図奉る、伝曰、其頃上方より方長老と云僧、御預に付下り居合、系図之文を作る。重直公御世」。同じく三十四条目「公方様より被仰付けるは、諸国系図御改之時、重直公指上候は委からず。代々の軍功之次第を記指上可申上意に依て獅子内木工へ被仰付、戦功之次第委細に相記書き上げる」と見える。 七条目の「寛永十八年云々」に関連する記述は、『同書』重直公御代のことの項に「寛永十八年六月九日南部家御系図御所望にて御留主居奥瀬内蔵助持参差上申候。私(伊藤祐清)曰将軍家光公正保元年五月諸家系図撰三百七拾巻此時之事可成、御処望之儀古老不及聞由」とも見え、『寛永諸家系図伝』の成立に方長老が拘わった記録として周知の処である。一方、これまで三十四条目は等閑にされて来た嫌いはあるのだが、太田説(【史料批判・雑感】参照)を発展させて『南部根元記』の成立を記録したことが読みとれる一条である。つまり、『南部根元記』は獅子内木工によって編纂された信直伝であったことが勘考される。 ■ 著者略譜 獅子内木工に付いて、『参考諸家系図』四十四之巻によれば、獅子内杢、初め鹿討。諱を則昌と称し、鹿討内蔵助則方の二男と見える。その譜は「若年より算筆を好み、その術に通達す。重信公(一本重直公)寛文中に花巻より召出、禄若干を賜う、初め鹿討氏を称したが、音訓を転用して獅子内氏に改め御祐筆となる。現米二十五駄を賜い、後貞享三年八月十駄加増、のち追々加増あり、合現米七十五駄、高に〆て百五十石となる、元禄四年致仕し、同十二年死去」とある。 南部家の歴史を武具・什器などの整備により後付けしたのは重信代からはじまり、利視代と見られている。その視点に立脚するならば、獅子内木工が召し出されたの寛文中とする「重信公(一本重直公)」は、寛文四年に死去した重直代ヵ同五年に襲封した重信代ヵの問題であり、しかし鹿討氏を称した時期は確認出来ていない(『雑書』寛文四年・同六年が欠本、且つ、これを補う『身帯御加増分地被召出之類』同年の条に記載がない)が、重信の代と勘考される。後考を俟つ。 参考 『身帯御加増分地被召出之類』天和三年二月廿四日条 一、壱駄八人扶持 獅々内木工 御切米弐拾五駄之内、依願右之通御直被下 註 壱駄八人扶持 御切米弐拾五駄共、石に換算て五拾石 『身帯御加増分地被召出之類』貞享三年八月廿九日条 一、今度於江戸御加増被下御切米證文昨日相渡之覚 一、拾駄 都合三拾五駄 獅々内木工 以下割愛 |